ラピュタ人「Yes, We Can.」/WALL-E
「やあ、彰浩君。正月はどうだったい」
「フォールアウト3をやってたりしましたが… あと、WALL-Eを観ましたよ」
「お、ウォーリー。どうだった」
「あれは面白いですよ。まず地力がありますね。孤独なブルーカラーの主人公が、ツンツンの乱射軍人セレブヒロインにボーイミーツガールして、後者がデレてくわけですが、冒頭の孤独感や、執拗な手と手の演技が実にパワフルです。ああいう渾身の右ストレート演出は年を取ると効きますね。わかっていても涙が湧きます」
「君も三十路だからねえ」
「弱点を言えば、場面ごとの勝敗オブジェクトの説明が何度か弱いところがあって、苗の争奪なのか、ボタンを押す押さないなのか、ステージが閉じる閉じないなのか、など、わからない状態でアクションがドタバタすることがあります。中盤以降が高度に発達した魔法的技術世界なので、マクガフィンの因果が描写不足になりやすいんです。まあ、大きな問題ではありません」
「ふんふん」
「しかしですね、エンドロールあたりからナウシカやラピュタを連想しはじめると、宮崎駿先生ファンにとって真のお楽しみが始まるのです」
「エンドロールから? 何それ」
「いや、勘の早い人はもっと前からげらげら笑ってるんでしょうけれど… エンドロールが、ナウシカとかラピュタの絵巻物演出に似てるんで、連想しやすいんですよ。人とロボットが力を合わせて、荒廃した地球に再入植していくんです。傑作です。」
「ふむん?」
「つまりですね。ウォーリーの世界観は、ナウシカ・ラピュタのあの、自然と技術文明との関係なんですけれど、裏返しになっている。」
「自然と技術文明か。どんなに恐ろしい武器を持っても、たくさんのかわいそうなロボットを操っても、土から離れては生きられないのよ! というやつね」
「そう、まさにそれです。ウォーリーの世界観では、生き残ってるのは、土から離れたほうなんです。世代宇宙船でクルージングに出かけたコロニーのほうが気楽に存続していて、地球の人類が滅びている。」
「地球は滅びてるの?」
「はい。ウォーリーでは、ラピュタ人こそが人類なんです。ナウシカでいえば墓所の外側がすっかり片付いている。ナウシカやパズーやシータは滅びていて、いない。」
「ラピュタ人大勝利ってわけか?」
「そうです。ラピュタ人が六本木ヒルズで財テクリゾートでカウチポテトしてて、うっかり700年ほど世界のメインテナンスを忘れてたら、地上は滅びていたんです。さすが、アメリカ人、立場が違いますよね。」
「あー」
「世界に意味もなくゴミ土建を立てさせてきたけど、ごめんね! 忘れてた! 故郷は大切にしなくちゃね! 自然と産業を調和させて、ちょっくら立て直してやるぜ!――で締めです。」
「それはまた結構な締めだね。あんたらが二酸化炭素で水位上げてきたんじゃん…て」
「そう。その傲慢… その主体性… これがアメリカかと。たいへん感銘を受けました。だから反省して、そして行動するぜ! っていう話なんですよ。失敗したから反省だ、路線をグリーンニューディールにする。チェンジだ、と。そこで自責して立ちすくんだりしない。宮崎駿先生だとけっこうぐっと立ち止まって、あれこれ考えるんですけど」
「駿先生だと、『自然と産業とを調和させればいいじゃん、と、考えるだろう…が…そうはいかないよな』っておっしゃるもんなあ。『そう簡単にはいかない…人間の業というのはそう簡単にはいかないはずだ…』とね」
「ナウシカの7巻とかでそういうこと描いてましたよね。新たな清浄の地が生まれても、そこにまた産業革命を起こすだろう等。駿先生の語りだと、そういうふうに先回りして、一種敗北主義的なところから、大局的には負けていようともそれでも戦術レベルではなんとかやるんだ…という話をするんですけれど、ウォーリーは違う。」
「うん」
「ウォーリーは先回りなどしない。その手前で前を向いて、屈託ない。『調和するけど? 鳥と共に歌をうたうとか余裕でするし』さすがスタントン先生は格が違った。イニシアチブを持ってる世界観というのは、そうなるわけですね。反省から行動へ、立ちすくまないで移る。主導権があるんだから動くんだと。」
「じゃあこれから4年か8年、そのノリでやるってわけか? 本当か?」
「本当なんですかね… しかし、本当であったほうがいいです。われわれだってラピュタ人ですし…」