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信仰について/時間が無限にありさえすれば

 信者というのは、尊敬によって判断の下駄を預けてる人を言う。つまり、ある人が自分よりすごい頭良くて物知りだと認めて、何かについて判断するときに、自分で考え知識を集めなくてもその人の言うことならだいたい信用できるだろとみなすってこと。で、ふつうは、医者にあずける下駄は医学についてのものだが、ものすごく広い範囲について下駄を預けた状態が盲信だ。布教や誇りは信仰とはまた違う話だ。

 ある人の言説の一部を読み聞きしてそれが自分の考えと一致しており、かつ、そいつの普段の言動が無矛盾であれば――食い違うことを言ったり前言を翻したり嘘をついたりしなければ――自分がまだ考えておらず知識も集めていない問題について、その人が考えて下した判断は、自分が考え知識を集めた後に下すだろう判断と一致する可能性が高い。ある公理体系が無矛盾に組み上がっていると信用できたなら、その一部の正しさを検証するだけで全体を利用することができる。見えている範囲で同意見なら見えていない範囲でもたぶん同意見だ。このように利用するためには、見えている範囲で定理をつないでいる論理が、見えていない範囲でも用いられていなくてはならず、つまり体系全体が統一された規格の柱と梁、その人印の押された一定仕様の建材で組まれている必要がある。だから言論人には一定限の頭の固さ、成長のなさが求められるわけで、これは残念なことではある。言論人は適切な時期に成長をやめることが求められているわけだ。

 こう考えてみると、好きになることとそれに飽きることとは一体のものである。体系全体を知り検証しつくすまで読むようでは、そもそもそれを読む意義が怪しまれる。乱暴に言えば、何かを好きになってそれについての情報を集めている時、人間がしているのは、早くそれについて十分知り、理解しようという努力であり、それはそれに早く飽きようという努力だ。熱中するというのは一時的に学習投資を集中することであり、なぜそうしなければならないかというと、あまりに重要なので素早く身につけたほうがよいからだ。

 話を戻す。人間はそうやって毎年毎月毎週、読み聞くことで、信頼できる他人の公理体系を増やしていく。この手法を好まないで黙々と自前の視界を広げていくのが哲学で、いきなり大量の下駄をひとつところに預けてしまうのが盲信だ。

 常識的な宗教の信者は、人生の目的とか善と悪とかいった根本的/形而上的な部分についての下駄は預けてるが、じゃあ医学についてとか晩のおかずの安い店についてとかはどうだというとそういう個別の問題については預けてないので、現世での行動はたいして突飛にもならない。また、預けた部分の手前までは自分で考えてたりするので、実は手持ちの視界は無信仰の若僧より広かったりする。

 そもそも思考と知識収集の時間が有限なので、人間はなんにせよどこかで思考と収集を打ち切って、そこから先について誰かを信頼するか、信頼せず未決マークを貼って放置しておくかの二択だ。

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