指輪世界の第五日記。基本的に全部ネタバレです。 Twitter 個人サイト

ジャングルジムの梁/恐くないよ

 一昨日書いた話で重要なのは、そこで使われている、そしてわれわれがふつうに使う論理という言葉が、数学で用いられるものとは違って、はるかにルーズなものだということである。われわれがこの現実世界で運用している論理というのは、数学屋さんやコンピュータが使っているものよりはるかに粗略で速度に勝るものだ。フレーム問題とニューラルネットワーク。穴はあっても踏むとは限らん。リスクを冒して先に動いて勝て。夫生物貴拙速 未聞巧遅

 蛋白質で作る計算機では、論理演算を真面目にやっていては、不真面目な連中に速度であらかた負けて、ごく限られた問題でしか勝てない。だから言論のほうを理屈、数学のほうを論理とでも呼び分けたほうが安全だと思う。

 かくして、理屈屋たちが言ったり書いたりする話での論理というのは、十人十色であり、それらについて「彼の議論は論理的だ」「君の論理は破綻している」などという台詞がとびだす時も、べつに、規範となりうる万人共通不朽の絶対的論理がどこかにあるわけではなく、「彼がしているような帰結のつなげかたを私もする」「君は私だったら慎重に検証する因果の過程をずさんに飛び越してしまっている」といった具合に翻訳してしまえる。

 人の思想体系が、多数の命題を論理の柱と梁がつないでいるジャングルジムのようなものだとすれば、この梁は人によって、プラスチックでできていたり木でできていたりして、また一本一本が長かったり太かったりする。ある人の言説を読み聞きするときには、命題を知るほかに、その人規格の梁の仕様を知ることが大きな目的だ。



 そういうわけで、>id:AYS:20040325


 宗教の信仰というのは論理とはあまり関係がない。矛盾していてもそれは矛盾とみなされない。

 神は全能なのに悪魔がいるのはなぜか。イエスが十字架にかけられる必然性があったのなら、なぜユダは悪者なのか。

そこで挙げられている矛盾というのも、べつに絶対的で明々白々、これを真面目にとれるなんてありえない客観的論理破綻、ってわけではない。まあ僕や綾茂さんが習ってきた仕様の梁とはかなり異質なので、どうにも組み合わせられないが、神学者なんてのはそうしたヤバげな命題を共存させる体系を組み上げようとがんばってきたわけで、組んで組めないことはない。一般に、がんばればどうとでも理屈はつく(※どうとでもつくが面白いとは限らない・役に立つとは限らない)。われわれだって、いつか死んじゃうのになんで今生きてるの、とか、ヤバめの命題をいくつか持っているが、「そういうのはその、なんだ、まあいいじゃない。そういうもんなんだからさ」で済んでいる。われわれにとってそれはそれで済むのだ。信者の連中の人たちにとってあれはあれで済む。そこに差はあるが、それほど決定的な差ではない。

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