指輪世界の第五日記。基本的に全部ネタバレです。 Twitter 個人サイト

晩婚化と富栄養とコミケと蜘蛛

 ※こちらの方がはるかに短く書いています;萌える男たちの父性願望



 以下、それっぽい単語も多いが、しょせんはいつもどおりの精度の非常に雑な話なので、心に薄笑いをたやさず読むこと。

 われわれ日本人の初婚年齢はここ30年で二極化している。1970-2001の夫妻の年齢別初婚率人口千対 これはホワイトカラーが労働力として成熟する(黒字を叩き出すようになり親による投資が終わる)のが遅くなったためである。つまり、ある個人から見たとき、自分が黒字を叩き出すようになるのが遅いので辛く、同時に、子供が黒字を叩き出すようになるのが遅い(子供が高価である)ので辛い。また、一方では、戦後経済の復興および経済的宗主国への復帰により、栄養状態がよくなり、二次性徴は早くなっている。そしてこれは最近30年についていえるだけでなく、最近1万年についてもいえることである。

 われわれの物理的肉体はだいたい数百万年前から1万年前ぐらいまで、比較的一定に安定した環境におかれていて、その条件にあわせてチューニングされていた。それが急激に変わったのがここ1万年の話であり、それがあまりに急激であるため、あまり追随できていない。たとえば油脂に対するわれわれの摂食嗜好を例にとると、昔われわれは脂肪分を摂取する機会が稀だったので、それが運良く手に入ったときはたらふく食いだめしておけ、というふうにチューンされている。そのため、農業/家畜技術によって大量の脂肪が手に入る状態になった今は、摂食嗜好の設定がいわば強めになってしまっており、われわれはハンバーグやらポテトチップスやらを毎日、必要量をはるかに越える分量、食べており、ときどき詰まって倒れて死ぬ。

 さて、晩婚化と富栄養化が戦後30年/文明化1万年の二重の意味で起きており、ではどうなるか。すなわち、肉体的に嫁婿を迎えたくなってから、経済的に嫁婿を迎えられるようになるまでの、タイムラグが非常に長くなっている。そこでまず、嫁婿に対する欲求が相当量、満たされていないで世の中を漂うことになる。これが第一の根本的な病因である。そしてこのとき、肉体的に繁殖に最適に成熟する時期が富栄養化により早まっているのに、経済的成熟はそれよりずっと遅くなっており、つまり、性的魅力が最大に高まる時期が、社会的/あるいは精神的に未熟な時期になってしまっている。このずれも、いろいろと困った病因である。そしてさらに話をややこしく困ったものにすることに、われわれの目がわれわれが本来すでに得ているはずの幻の嫁婿を探し求めているのと同じ理屈により、われわれの目はわれわれが本来すでに得ているはずの幻の娘息子をも探し求めている。おそらくわれわれの肉体は、このふたつの欲求不満をうまく分離できておらず、厄介なことになる。つまり若年個体を見たとき、それを保護育成するか、押し倒そうとするか、ルーチンが同時発生してバグったりする。

 さて、コミケとその中にあふれるロリショタ同人誌というのは、いま述べた病因から発生する症状である。ここでゴキブリと蜘蛛の話をしよう。問題と、それに付随して発生する徴候とを、いっしょにしてはいけない。ゴキブリがいる部屋には、それを食べる蜘蛛もやってくる。つまり部屋に蜘蛛がいるというのは何か害虫がいるわけで、喜ばしい徴候とはいえない。しかし、蜘蛛自体は害虫を食べて、いくぶんかその頭数を減らしてくれはしている。だから蜘蛛を見て、悪い徴候だからほうきで叩こう、というのでは考えが浅い。蜘蛛は不幸中のものであり、幸いまで行くかというと疑わしいが、その不幸を発生させているわけではない。

 コミケ秋葉原のビルの中に充満している肌色空間のフィクション世界は、われわれの抱える不幸のあらわれ、不幸への対応である。そこを不幸の根源とみなして敵視したり罪悪感を担ったりすると誤る。エロ漫画を買おうが買うまいが、不幸自体はそのままそこにある。重要なのは現実の少年少女にコストを払わせないことであり、それと、フィクションの少年少女をどうしたりこうしたりすることとの間には、同じ不幸から生じている現象なのでいっしょくたに見えるかもしれないが、しかしものすごく重大な差がある。根本が一緒だから大差ないとか、フィクションだからといういいわけに逃げているとか、そういうふうに考えるのはぬるい。そこは大切なのだ。

 指針としては、現実の少年少女およびその親御さんたちのいる現実レイヤー、および公共コミュニケーションレイヤーで、こそこそし、彼らに物理的に直接はもちろんのこと、視線や言説による接触でのプレッシャー/不安を与えないよう、品行方正に偽り、趣味を隠して、彼らにコストを払わせずに生きることである。そしてTV放映されるアニメのフィクション世界のレイヤーでは、そこで隠喩的に行われる少年少女をああしたりこうしたり(現実の彼らや親御さんたちがお気づきない例のあれこれ)を意識的に楽しみ、それに罪悪感を感じなくていいし、さらに下の小さなアニメ同好会のコミュニティのレイヤーでは、談論活発に萌えその他披露してよい。そして最終的に心の奥底の自分ひとりのレイヤーでは、一点自分に恥ずる必要は無い。

 ロリコンだの幼女嗜好だの、自分は不健康だ、エロ漫画を断って治そう、という考え方はたぶん、あまりうまくいかない。その一方、モラルや倫理の類は、心底からそう感じられるようにならなければならないものではなく、現実レイヤーおよび公共コミュニケーションレイヤーでロールプレイして全体の幸福量効率を上げるためのスクリプトだ。そこを努力でもって、たとえばヴォルテールのように試みるのは("それでヴォルテールなんて椅子の手すりに釘を打ち付けて、神様と関係ないこと考えてしまったら自己刑罰でがんがんぶっ叩いて血だらけになったりという具合に。"東大オタク学講座第12講)、つまり自分ひとりのレイヤーでまで神を得ようとするアプローチは、努力量を無駄に消費する。

 勝つ、という考え方もある。若くして/若い嫁婿娘息子を得ろ、競って勝てと。なるほどある程度の割合でその枠があり、その割合が低くはなったが、30年前だろうが1万年前だろうが勝てば勝ちだということでは今も同じだ。それは、縁のある個人に対しては、そう、言える言葉ではある。だがその勝利は、集団内での対人戦での勝利であって、助言と忠告で1000人を勝たせて嫁婿をとらせれば、よそでそのぶん1000人があぶれ、総幸福量に変化はなく、不幸は不幸のままそこに残るけれども。また、勝って勝てって話になると、横の競争で勝つより、直接経済力差のある相手に勝ってしまうほうが早くなる。国内外の、貧乏な少年少女に。だからそこは縛りを入れておかないと気持ちが悪くなろうが、そういう線引きは線引きで、考えただけで気が重くなって苦手だ。各自の工夫に話を投げて終わらせる。



※ピアノ・ファイアのいずみのさんに先日のキルビル感想へのコメントid:izumino:20040525をいただいたので、ごたごた理屈をひっぱりだしてみたり、メール交換したり。

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