指輪世界の第五日記。基本的に全部ネタバレです。 Twitter 個人サイト

文章たんvs鍵括弧

 うちの文章たんは鍵括弧がかなり嫌いで、僕が鍵括弧を使うたびに「何それ?削れないの?」と声を高める。といって、今のような台詞の鍵括弧にではなくて、「文章」みたいな使い方が気に食わないらしい。アングルブラケットの<世界>とか<個人>はもっと嫌いで、近年は使用のお許しがまず出ない。

 彼女に言わせると、もともと文章にせよ世界にせよ個人にせよ、抽象度の高い一般名詞は多様な意味を持ち、観点切り口文脈が山のようにあるのだから、自分の文章がその単語を特に別な文脈で用いていると考えること自体おこがましいそうだ。しかし僕がにらむところでは、彼女の鍵/山括弧嫌いは高校時代の通学電車内で形成されたもので、雑誌の吊り広告での鍵括弧の使用法への憎悪に遡るものだとみえる。たとえば吊り広告の一文に、 何某「感動再会」もこれからの「難問」 などとあると、彼女にはこう思えてしまう。つまり、感動再会にわざわざ鍵括弧をふるのだから、ほんとうは感動などではなくしらけた雰囲気であったのだろう、そして何某がインタビューに、これからこの難問に挑んでいきたいと思います、などと答えたが、実際には難問などではないことが周知で、編集者は何某のそんなコメントを馬鹿にしているのであろう。

 と考えが流れたあたりで、文章たんの意識は戻ってきて、いや違う、これは、何某が感動再会を果たすも難問消えず、の意味だと考え直すのだ。つまり鍵括弧がない状態の文意で正しいのだ、と認識をしなおす。そして吊り広告の各行に含まれる鍵括弧一組一組が、このシークエンスをひきおこし、うっとうしい。

 彼女は、鍵括弧が使われる以上、そこには普通の読み方をしてはいけないだけの重い意味が含まれているという考えが強い。つまり鍵括弧を高く評価しすぎている。そして鍵括弧がたくさん出てくる文章を読んでいると怒り出す。そんなに特別な意味ばかりを含んだ文章などあるべきではない、ふざけるな、というのだ。さらに< >≪ ≫まで混ざってくると、ぷいとどっか行ってしまう。このへんには、< >の正しく有効な使い方、読み方というものがあって、それを自分が学べていないのだという劣等感があるのではないかと思う。また、一般名詞を片仮名に開くのも気にしている。

 鍵括弧の使用法への執着は、もっと以前、中学校ぐらいの若い頃(僕があまり意識していなかったころ)に、鍵括弧たんとの間になにかあったのではないかと思えてくる。文章たんと鍵括弧たんで萌えエピソードのいくつかも妄想してみようかと考えたが、余計なことするなと怒り出したので筆を置く。この人怒り出すと長い。

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