指輪世界の第五日記。基本的に全部ネタバレです。 Twitter 個人サイト

カンフーハッスルと師匠と弟子と

 カンフーハッスルを見て来ました。

 素晴らしい。たいへん素晴らしい。

 チャウシンチー監督といえば少林サッカーと食神を見ましたが、ヒロインキャラを登場時に不細工メイクさせておく必要がどこか僕の知らない世界にあるらしく、香港人の王道萌えはアヒルの子プロットなのでしょうか*km? しかし今回は僕らにも安心、最初から美人であるうえに、回想が幼女なばかりか、オチでまた幼女です。また、シンチー的には女子がアヒルなら男子は負け犬であり、序盤のかなり長いパートが主人公(たち)のいじめられっぷりに割かれていたもので、今回も主人公はギャングワナビーな口先チンピラです。しかも本当に最後の殺陣の直前までへたれチンピラなのです、が、逆にそう構成することによって店子達人三人衆、大家夫妻、琴使い二人組、ラスボス健康サンダルという、8人もの武侠キャラの内容豊かな見せ場を確保。一人一武芸どころか、三武芸ずつぐらい見せます。素晴らしい。これはジャイアントロボアニメ版がすべきだった構成なのかもしれません*gr。この点については、チャウシンチーの顔が90分出ずっぱりで画面を支えるには微妙に不足するということも言えて、そこをちょうどかわしたとも言えます。また、各人の配当時間の増加により、武芸だけでなく、衣装とメイクの見た目、キャラクターイメージの転換も確実に一人一回、割り振られており、逆に主要人物で転換がないのがギャングのボスと副官、およびヒロインのみとなっています。

 周囲が野っ原のところにコの字形6階建て老朽アパートという嘘建築も良い。6階建てのアパートがあるはずなのは市街地なのですが、それだと住民集団を一つのものとしてフレームに入れられない。一棟隣のアパート、もう一棟先のアパートなどが混ざってきてしまいます。といって上下に舞台空間を確保するには平屋はありえず、6階ぐらいは欲しい。またコの字形にすることで、敵方のやってくる動線と、それを中庭で迎えうつという移動のパターンができる。これを別の言い方で言うと、やってきた敵方の視点のカメラから映る建物の表面積が大きい。単に巨大なだけではなく鶴翼の陣をかまえる。嘘建築万歳!

 しかし歴史の長いところはいいなあ。武術流派の歴史的蓄積がたくさんあって、達人がたくさんつくれる。アメリカンだと超人の持ち芸が熱線とか氷とか雷とか、物理/自然現象になりがちだものなあ。それこそ達人と超人という言葉の違いというか。がんばって歴史を伸ばしていきたいものです。



 それから今回おおいに楽しめたのは、いずみのさん(ピアノ・ファイア『カンフーハッスル』)/結城さん(約束の場所へ)らによる「少年漫画における師匠-弟子論」をちょうど数日前に読み聞していて、それをいわば予習として観劇できたことがあります。


あっそうか!

>結城さんに私信
ごめん、今日してた話、全然理解してなかった! 今の瞬間気付いた(笑)。



なぜ少年漫画の主人公が師匠と同じになってはいけないのか。

それは「主人公が師匠と同じになってしまう」ことで、「読者が主人公と同じになった気になってしまう」からなんだね。

つまり、主人公が師匠に対して「貴方のようにはならない」と決意しなきゃいけないように、読者も「主人公のようになりたいけど俺は別の道を辿らないといけない」と決意しなきゃいけないんだね。あーそうか!



漫画の読者は、絶対にフィクションの主人公と同じになれる筈が無い(同じ道を歩めない)のだから、師匠と主人公が同じ道を歩んで終わり、っていう結論だとそこで閉じてしまって、主人公と読者の間に断絶ができちゃうんだね(あるいは主人公と同一化した幻想を抱いたままになってしまう)。

読者が主人公に憧れてそれを目指そうとしても、必ず違う結果になるんだということをちゃんと示さなきゃいけない。

そして違う道を辿らなければいけないからこそ、読者には未来が拓けてくる。



そうか、そうか。凄い納得が行った。目から鱗だ。         (いずみのさんから結城さんへの私信、許可を得て抜粋、2004年12月24日)

なんと短く早い理屈でしょう。綺麗だ。

 実際カンフーハッスルでは、武術家を志した大家夫妻の息子は大会で死んだと語られますし、主人公は内功に目覚めて最強ラスボスを倒すにもかかわらずオチではお菓子屋になります。そして幼い主人公の素質を見出し、武術書を高値で売りつけた浮浪者、すなわち主人公の師匠は、ラストカットでまた新たな少年に武術書を売りつけようとして、断られると、今度は一冊ではなくて五冊の冊子を取り出して広げてみせます。「これが気に入らないのなら、そら、まだ、他にもあるぞ」 飴を舐めながら目を見開く洟垂れ小僧の顔でフェードアウトです。

 五冊の冊子は武術書ですがむしろ、作中で大家夫妻が「あの(死んでしまった自分たちの)子は医者か弁護士かにしたかった」という医者や弁護士の道、そしてそれ以外の道ですし、あるいは浮浪者を映画制作者、洟垂れ小僧を観客とすれば――このカットの構図は浮浪者が真っ向カメラを見詰め覗き込んでくるというもの――この映画が気に入らなければ俺には他の映画もあるよ、という話とも見れます。ここに加えて、小僧の舐めている飴が主人公の売っている飴で、それはもとはと言えばかつて幼ヒロインが主人公に渡そうとして渡されなかった飴なわけですから、好意というか愛が真直ぐそのままには届かずに、弾かれながら予期しない誰かに響いていくという、情意の継承伝達の構図*ooまで絡めてあって、美しく決まりすぎです。やばい。

 少林サッカーのオチは、皆カンフーを使うようになった街の人々というもので、皆がヒーローと同じ道に進むという逆の話になっているんですけどね。いったいどういうことなんでしょう。不思議なものです。





[km]  醜いアヒルの子プロット

参考:食神のヒロイン作中 作外 引用元−食神 チャウ・シンチーを見ろ!−



[gr]  ジャイアントロボアニメ版がすべきだった構成

 つまり、大作君を序盤からあんな懸命な子供にして嫌「人死に→責任」イベントをぶつけていくのではなく、子供らしい間違ったアプローチを繰り返す演出にして背景に退かせ、達人たちの諸芸披露に序中盤の尺を譲り、最終の2戦闘を大作君開眼と活躍と決着にあててはどうか。

 アニメGロボの設定および展開上でおそろしいのは、大作君がへたれ青年ではなくて、子供であるところです。現実世界では、子供は本来あまり実戦力として期待されるものではないので、活躍できていなくても不甲斐なくは見られないものなのですが、しかしアニメGロボの人間ドラマプロットは、大作君に次から次に期待と保護と委託を投げつけて荷わせるつくりになっています。天才科学者や達人ら、実力十分どころか百分千分たることを派手なアクションシーンでさんざん見せつけた大人たちが、子供の大作君に期待し委託していく絵面は謎です。僕らの二世代上はものすごい力をぶんまわしてとてつもない負の遺産をのこしたのだけれど(日中/太平洋戦争のこと)、一世代上はそうでもないから、噛み合わないのか?



[oo]  好意が真直ぐに通じず弾かれながら予期しない誰かに響いていく

 好意が狙った相手に着弾せず、通りかかった誰か別の人に誤爆される。ドラマのドミノの倒れ方の一種ですが、特にこれを指して好意の誤爆、また誤爆萌えと言います。幸福量の平均値を高く保持しながらその振動を増やす作劇なので、単にシンデレラ風味ではなく、強力です。言い換えると幸福量が0から100に1回だけ変化する展開ではなく、120から90へ動かしつつ次の展開が可能。



参考:

第一日記実戦をやってみることはできない。バガボンド。 道は複数あるって話の参考。

神楽坂時光カンフーハッスル評論について 香港電影評論學會というサイトのカンフーハッスル評論の要約。

スキスキダイスキ 人名まわりと、そこから梁小龍の小部屋

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