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作業分割のための文章

 文章は思考の作置式ショートカットとして使える。いったんそれを書き上げ、あるいは読了して、信用し、受け入れ、脇に置いておく。するとそれ以後、関連する問題について考えるときに、その文章が論じた部分は思考時間をすっとばして先に進むことができるようになる。人間が物事についてひとしきり考えられる時間というのはけっこう短く、いわば息を止めて水に潜るのと似たものなので、そのような時間の短絡はことごとに役に立つ。

 あるいはこういうイメージもできる:物事について考えることを、樹状の幹や枝を伝い登っていくことにたとえたとして、文章は特定の形をしたはしご、取り外して他の枝に接げる枝*5のようなものだ。ある地点まで生足で登ってから、そこにはしごや枝を設置し、ショートカットして先に進むことができる。あるルートにはしごだけ置いて、そっちには行かずに済まし、思考を他の道へ進めることもできる。

 言い換えると、文章がしっかりユニット化されていれば、思考という作業を、時間を分割して処理することができる。また、そのユニットを他人に渡して使ってもらうことや、あるいは他人のつくったユニットを借りてきて使うことができる。

 文章をこのように使うためには、その文章がひっかかりの少ない*3、スムーズに流れるものである必要がある。細かい誤字脱字や事実関係の誤記、出過ぎた修飾語のミス*4などがある箇所では、読者の目がひっかかって、いちいち止まってしまい、そのたびその心の中で注釈や訂正をつける作業を行わせてしまう。また、本論に関係が薄い話や、方向性の違っている話が混ざっている場合にも、過剰な閲読時間*1を使わせるうえに、読み終えた後に余話と本論との分離作業をさせるはめになる。そうしたコストがつもり積もってある閾値を越えると*2、けっきょく思考時間短縮の役に立たなくなる。

 しかし文章の役立て方はこうした時間の短縮以外にもいろいろとあるので、別にこの使い方にこだわる必要はない。適宜くらすがよろしい。





*5 取り外して他の枝に接げる枝

 文章の冒頭で、それを書くに至った動機をまず書く人がままあるが、やや筋が悪い。その理由がこれである。文章を書くに至った動機というのは、枝に対するいわば親枝だ。動機について記述してしまうと、枝が親枝から取り外しにくくなってしまい、汎用性を損なう。その筆者がその枝を書くに至るまでの個人的事情など、余計だ。取り外して使うのだから、その足元までの経路、親枝の形状についての記述は要らない。もし必要なのだとしたら、その動機部分がすでに本論に必要なのであって、取り込んでしまったほうが筋がよい。*6



*6 取り込んでしまったほうが筋がよい

 こうした理由から、前書きというものの意義にはたいへん疑問が持たれる。本というものにはたいがい前書きがついているが、たいがい筋が悪い。

 本論と関係がある前書きは、よくない。本論を要約している前書きは特にまずい。もし、うまく要約出来ているならば、本論なぞ書かないでよかった。そこできれいに、実例やレトリックを抜きに同じ内容をまとめきった文章をつくれて、それが成立できてしまうのならば、長さが短いほうがはるかによいではないか。ひいこら本論を書き上げた著者こそ御苦労様というものだ。一方、もし、うまく要約出来ていないならば、その前書きはこれから本論を読む読者に余計なマインドセットを与えて、ミスリードしてしまい、読み始めの方角がよれて、邪魔だ。ないほうがいい。

 では本論を補足する前書きはどうか。補足する前書きは、文章の構造の整理からいって、脚注に放り込むべきだ*7

 本論を誉める前書きは――理屈君にとって著者の交友関係なぞなんの興味もない。やはりミスリードになりやすい。邪魔だ。後書きに放り込むべきだ。

 適切な前書きは、本論と関係ない前書きだ。そういうのはアイザック・アシモフ先生が上手い。アシモフ先生の前書きの多くは、その本を書いていたころの軽い内輪話で、与太な雰囲気でその本の出版の経緯に触れつつ、その内容にはほとんど関係を持たない。独立したネタ性で成立しており、ミスリードしない。



*7 脚注に放り込むべきだ

 本当は、脚注ではなしに、その内容を本論に組み込めば組み込んだだけ、理屈話は強健なものになる。しかしそれはかなり難しい仕事になる。各箇所の理屈の重要性と、その箇所の文量とが、あまりにかけ離れてしまうと、全体の理屈がうまく並び通らなくなる。ある箇所で理屈の枝が延びてしまって文量が増えたら、それに釣り合うように、対応する別の箇所の文量も増やさねばよくない。そのコストを考えると、じゃんじゃん脚注に放り込んでしまうのは次善として悪くない手だ。

 雑な言い方で言うとこうなる;文章というのは、シリアルにディレクトリを掘るようなものなのだけれど、これが元来ややこしいことであって、うまく直列かつ並置できたら御喝采てなものだ。だから、「こりゃ撚れてきた」と思ったら分離して脚注にしてしまい、本論の整容を保っておくのが安定だ。



*3 ひっかかりの少ない

 途中でひっかからずに、本論の論旨のラインだけをなぞってもらうためには、基本的に本論以外のつなぎの箇所で余計な突込みを受けないよう、息をひそめて、小心に組み上げる必要がある。

 また小細工としては、たとえばはがをにの頻度をたいらにして、あまり同じものが続かないようにならす、などの工夫もある。こうした瑣末な手は大量にあり、相互に矛盾してトレードオフになっていたりもよくする。そうしたトレードオフに筆が止まって悩み始めたときこそ、わかりやすく文章さんの降臨しているシチュエーションだ*8



*8 わかりやすく文章さんの降臨しているシチュエーションだ

 文章さんは文章にケチをつけてくる存在であり、どちらかといえば文章が書き進められている時というより、筆に詰まってどう書き進めたらいいんだこれ?と悩んでいる時に居る存在といえる。

 だらだら書いて書けている時、喋るように書いている時は、それは本人が書いているのだ。

 書きはじめて、止まった時に、文章さんは居る。

 そうとでも思えば、エントリが書き進められず塩漬けになっているあいだの慰めになるというものだ。



*4 出過ぎた修飾語のミス

 「必ず」「決まって」「以外考えられない」など、強過ぎる修飾表現を使ってしまうこと。修飾と理屈の枝の強さ参照。



*1 無駄な閲読時間

 閲読時間は短くしたい。とはいえ、文章というのは、短すぎてもうまく動作しないような気がする。これがなぜなのかはいまいち不明だが、人間の脳の仕様のせいかもしれない。つまり記憶が他の記憶からのリンクでもって参照されるために、コンテンツの少ない文章は他の記憶からの参照でつかまえにくく、思い出しづらくなってしまうのかもしれない。いわば、googleにつかまるくらいはキーワードが欲しい、といったところか。

 なので、理屈そのものが楽しくても、あんまり短く書き終わってしまう文章には、実例などを加えて増量する必要がある。このとき付加する文章はあくまで本筋の流れに沿った、それを邪魔しないものである必要があり、なかなか難しい。



*2 そうしたコストがつもり積もってある閾値を越えると

 理屈自体が面白くても、余計なひっかかりが増えてコストがかさんでいくと、文章はどんどん役立たなくなり、へぼくなっていく。これは悲しいことだ。そして、へぼいにもかかわらず参照しなくてはならないものもある。理屈は先取性を問われるので、文章全体がいかにへぼかろうと、それに参照せざるをえないことがあるのだ。そういう文章はいかんともしがたい。真に呪われた存在であり、恐ろしいことだ。

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