修飾と理屈の枝の強さ
「非常に」「かなり」「けっこう」「場合によっては」「こともある」などの言葉は侮れない。これらは丁寧に配置する価値がある。
理屈話の論理の枝の生え伸びは、決して堅固ではないし、一様でもない。もろく危ういものであり、枝によって太さ細さがある。時に猿が伝い登れるほど丈夫な部分もあるが、栗鼠一匹支えられる程度の伸び方をしている細枝も多い。元来、文章による理屈話の強度は、数学の論理展開のそれにおよぶべくもない。
といって、枝は、太く丈夫ならば有難いことだけれども、そうでなければならないということもない。もろい枝も、それが崩れずに生物を支えきれさえすれば、十分に役立つ。あまり重いものを支えようとしなければそれでよい。
「非常に」「かなり」などの程度を表す言葉は、そうした枝の丈夫さを一箇所一箇所表示するものだ。それらはそれぞれ理屈ごとの強度、適用していい範囲の広さを表している。程度を表す修飾が適切に添付されていることで、理屈話は分をわきまえたものになる*2。
一方で、「必ず」「絶対に」など言い切り系の全称修飾は、筋が悪い。こうした強い修飾を使うにふさわしい箇所は非常に少ない。世の中に、必ずとか、絶対とかいったことは、ほとんどない。なにか適当なパラメータをぐるりと増やし、あるいは減らしてやれば*1、たいがい覆せる。理屈が通るのはそれらの条件の中間、けっこう細い領域での話である。また多くの場合、その覆しうる部分こそ、新たな枝の伸ばせる、理屈話のネタ元でもある。
*1 パラメータをぐるりと増やし、あるいは減らしてやれば
この理屈は『メタマジック・ゲーム』ISBN:4826901267、ノブを回す話と同じ。
*2 理屈話は分をわきまえたものになる