暴力の予兆表現とおおかみこどもの雨と雪
「おおかみこどもはさ、雪斜面の疾駆のような躍動的なシーンが素晴らしかったのもあるし、あと、暴力の予兆表現が本当に、実に素晴らしかった」
「ふうん?」
「以前、伊藤計劃さんが、スピルバーグの宇宙戦争のキャッチボールシーンはすごい、って書いていたけれど、http://d.hatena.ne.jp/Projectitoh/20050701」
「なにこれ読めばいいの」
「読んだほうがいい」
「伊藤計劃さんは苦手なんだよなー 話したでしょ? 神林長平先生が取り上げてたから虐殺器官とハーモニーを読んだんだけど、環境に対する主人公の主体性が、まさに…」
「読んだ」
「暴力行為そのものというよりも、それへの徴候、予兆をはらんだ状況を描くことが大事だと僕は思う。たとえばサウダーヂはそこがよかった。主人公の土方労働シーンでの肉体や重機の物理的な力の描写が強力で、そのへんからくる映画全体に常に伏流した暴力の予感が強烈。第二主人公の弟がナイフを研いでたりするんだけれど、それよりもむしろ土方作業シーンのほうが強い殺気に満ちていたりするんだよね」
「うーん?」
「今作、おおかみこどもの雨と雪でいえばですね、あの学校での狼パンチに到るまでの一連のシークエンス。あそこが本当によかった。あの距離感、圧迫感。適切な間合いを踏み越えて急速に押し込んでいく子供の近接力。これはもう、パンチを出すしかない! パンチを出すしかない! と肌身で納得できる最高な圧巻な演出でしたよ」
「あそこのどこにそんなに盛り上がるのかわからんよ」
「それから、あの風呂場で終わる喧嘩のシーケンス。あそこは姉弟の人と獣を行き来しながらの格闘戦の暴力そのものがまずたしかに素晴らしい。あそこはさ、姉弟がそれぞれ育ってきて、こりゃたしかに母親の力じゃ手がつけられないな、という説得力が格闘シーンにはっきりとある。」
「そうね。ああいう喧嘩になるともう手出しがきかないっていうね」
「それがまずひとつ、母親と姉弟の間の暴力の力関係の描写なわけ。暴力の面で子供たちが親を上回りはじめる時期。いいねいいね。いつでも盛り上がる張りつめた時期だよね」
「んー」
「次にあそこは、シーケンスの最後の終わらせ方が本当に素晴らしい。あの風呂場に籠城して、錠を下ろすカチリという音で終わらせる。おおお! 素晴らしい! 最高だ!」
「どういうこと。あの姉貴の背中はえっちいと思ったけど」
「そう、えっちい。かつ、あの風呂場のガラス戸の錠がいかに脆弱な仕切りであることか。そして姉の暴力が弟の暴力によって上回られはじめていること。この三点が完璧に美しく描写されている。素晴らしい。あのシークエンスのラストカットは、格闘の暴力シーンの終わるカットではありますが、同時に、次の暴力への非常に強力な予兆をはらんだカットでもあるわけです。びりびりするくらいの来たるべき暴力の気配がしませんでしたか?」
「したかなあ、そんなの。」
「するんですよ。あそこは。だから、ああ、これはもう、弟が家を出ていくしかないなと。もう出ていくしかないでしょうあれは。圧倒的な説得力でしたね。ああ、もう、やべーなこれはと。あんな完璧な『暴力の予兆』カットを作り上げたら、文句なしですよ。」
「なんだか一人で勝手に納得していくぞ」
「ある面からいえば、暴力そのものの描写、すでに撃発した暴力の展開というのは、暴力の予兆よりも貧しいところがあるといえる。極端にいえば、暴力が撃発したあとはそれを展開して、勝者を決めるだけになりやすいからだ。それに対して、実力として暴力が存在するがまだ振るわれておらず伏せられているという状況──つまり、暴力の予兆、のほうが豊かになることがある。なぜなら、対立の要素がありながら、同時に協力の要素も共有しているという状況だからだ。暴力をふるって相手を抑圧あるいは排除するという対立関係と、相手と一緒に協力して共存してすごすという利益関係とが、拮抗して、わずかに後者がまさっている。そういう状況はじつにポテンシャルに満ちており、豊かだ。興味深い。」
「んー、なるほど? 趣味が悪いな」
「以前、ナウシカ劇場版の大ババ様が目茶熱いキャラだって話をしたじゃないですか。http://d.hatena.ne.jp/ityou/20041124#a-wtp ちょっと湿気ったら戦争ではなくなってしまうような、統治と抗争と戦争との界面で、谷の人民の心に反乱の火種をくすぶらせておく大ババ様マジ歴戦のアジテーターだと。あのシーンは弁士中止させようとするクロトワが正しいんですけれど、映画のテンポの関係上、『言わせてやれ』ってクシャナが性能低くならざるをえなくてやむをえないところですね」
「そういう、戦いが起きるのか収まるのかの緊迫感がある描写が面白いってわけね。予兆か。」
「たんに敵、エネミーと捉えられるものより、共有するものが互いのうちにあり協力もしうる敵、ブラザー・エネミーのほうが面白いわけですよ。これは本の題名ですがね。ベトナムとカンボジア、および周囲のアジア諸国の『兄弟でありながら敵』という関係での第三次インドシナ戦争を描いた面白い本です。http://www.amazon.co.jp/dp/4839601321 アメリカのドミノ理論なんて粗雑で超残念な認識だったんですよ。おすすめ」
「ベトナムかー。図書館にあれば。それで内戦とか兄弟喧嘩は面白い、って言ってたんだな」
「です。いい題名ですよねブラザー・エネミー」
「そうかも」
「伏せられた暴力ねえ」
「しかし、暴力の予兆っていうのの描写は、やはり映画作品において強烈に演出される気がするんですよね。感情表現としては、たとえば漫画でも描かれうるものではないかとも思えるのだけれど、漫画では殺意とか潜在的暴力というのは、あのオーラ的な漫符や、目眉口元の表情描写、『ゴゴゴ』の心理擬音あたりになる。それほど、主題とはならない。なんで映画ではあんなに輝くのかな」
「漫画ならあと、バキとかである二者の間の空間がぐにゃりと歪むやつとかね。」
「ああ、餓狼伝なんかであるやつですね。あれはきっといわば、空間感覚のモードが通常のシンプルなものから、互いの攻撃可能範囲、制圧圏の押し引きというモードに偏ることを描写してるんだろうな。それもある。ふむ。そうだな、いま考えられるのは、人間の危険度認識過程においてまず音、聴覚から入ってくる音が重要なのだろうってことと、あと、距離の時間微分情報が必要なのだろうってことかな。たぶん、何フレームで何センチ近づいてきた、遠ざかったっていう、間合いがどう変化しているのかっていう情報が、暴力の予兆において重く算定されているに違いない」
「なにそれ」
「たぶん格闘ゲームの中距離戦を想定してもらって、互いに前後しながら間合いをはかってる間が暴力の予兆、一方が跳び込んでもう一方がそれを対空で落とせたり落とせなくてコンボが入ったりするのが暴力、と考えてもらえれば。この過程は、映画では描けるけれど漫画では描けないでしょう? フレーム単位での距離の時間微分が描けないから。あるいはほら、言うじゃないですか、『敵意というのは止まっていたり、ごくゆっくり動いていると、認識されない』とか。」
「ますますわかりにくい。」