バクマン。がおそろしい一つの理由
「やっぱこうでなきゃいけませんね、春なんだから」
「天気がいいのはいいね」
「それは…ラブライブの踊りか?」
「よくわかりましたね。忍者戦士飛影の動画をループしてたら腕の振りが気になってきて。人間の腕ってかなり重いから反動があるはずなんですよね。そこがやっつけミクミクダンス的になってて。腕自体の細さも、たぶん…」
「早く行こうぜ」
「前に、バクマン。の話してたじゃないですか。あれ、書いてもいいですか」
「うん? いいよ」
「昔ジャンプでやってた漫画? 面白かったよね」
「そう、あれって、なかなかおそろしい漫画でして。すごい面白いし、なかなかおそろしい」
「なにそれ。どうおそろしい」
「いくつかあると思ってるんですが、一番おそろしいのは、コミケが出てこない」
「そこだよなー」
「そうそのコミケ。あの話って、漫画家志望者や、アシスタントや、漫画が好きな若者が次々出てくるけれど、誰ひとりコミックマーケットやコミティアみたいな同人誌即売会に関わっていない」
「どういうこと」
「たとえば中学生くらいで、自分はけっこう絵を描くの好きだな、話を考えるの好きだな、漫画が好きだな、という子がいたとしましょう。」
「しよう」
「そういう子にとって日本がどれほど恵まれた国であるか」
「なぜなら、コミケがあるから」
「そうなの?」
「だってさ、ちょっと頑張って25部のコピー本を作って、コミケに持っていける。そうすると、その25部が売りきれるかもしれない。それで次は50部作って、それも売りきれるかもしれない」
「いいね」
「それで思い切ってオフセットで100部、うっかり200部… 日本はさ、とんでもなく少ない部数から受注してくれる印刷所がたくさんあるんですよ。」
「50部とか100部とかね。とても素晴らしい環境だ」
「そこで大事なのは、うっかり100部、200部売れた時に、それを買ってくれる数百人の人たちの、そしてまた、買ってくれない数万人の人たちの、望んでいるものが見えてくるはずなんですよ。そうですね?」
「あそこで周りをぐるっと見ればそれが見れるんだからね。もっとこういう絵が見たいんだ、もっとこういう話を読みたいんだって、欲望の質と量が直に見て感じ取れる場なんだから」
「だから、200部から500部にのばすためにはこういうキャラを描こうとか、500部から1000部にのばすためにはこういう話を描こうとかいうことが考えられる。それはさ、不特定多数の人が望んでいるものを描くっていうことを、自分がどれくらい好きかが、わかってくるし、試せる、ということですよ」
「それは案外、すごい合ってるかもしれない。自分が描きたくて描きたくてしょうがないものを描いていると、数百人、数千人の人々が、読みたい読みたいと言ってお金を出してくれるかもしれない。あるいは、自分自身としては皆が好きなキャラクターや絵や話が個人的に大好きってわけじゃあないけれど、それを推測して分析して当てて、皆を喜ばせるのが、面白くて性に合うかもしれない。それはそれでたいへん結構なことだ。」
「結構じゃないか」
「逆に、そうでもないな、自分は大人数勝負ではなくて、マイナーなキャラクターだったりマニアックな話だったりするかもしれないけれど、毎週土日に描いて、年二回コミケに出して、100人に面白いじゃんと思ってもらえれば面白いや、自分が好きな漫画を描くというのはそれで楽しいや、とわかるかもしれない。これもとてもいいことだ。」
「それはその人の勝手なんだからさ。買い手が多かろうが少なかろうが、自分が好きなことをできるのがいいことだ。」
「そう。自分の好きな漫画を描くということと、不特定多数のたくさんの人が求めているものを作るということの差分、それはかなり違うことで、その間には広いスペクトルがあるからさ。その差分を自分がどれくらいまで好きで、できるのかどうかを、段階的に少ないリスクから試していける。こんな健全なテスト環境はなかなかない」
「健全か。なるほど」
「いいじゃん。コミケに持ってって、自分と漫画と読者との関係を、小さなリスクから試してみればいい。それでその関係が手触りでわかって、堅い職に就職して、週末に漫画描いて、年二回100部刷ってコミケで売るのだって素晴らしい。」
「あの犬好きの坊々なんてけっこうその線でいい気がするよね。父親の会社を継いで、土日に漫画を描いて、年二回刷ってコミケで売ればいいんじゃないかな。彼にはそれがちゃんとできる気がするし。彼にも、あの一家の父、母、妹、犬にとってもいい気がする」
「誰も不幸にならない。僕は素晴らしいことだと思うね。」
「バクマン。がおそろしいのは、そこなんですよ」
「ふむ?」
「バクマン。は、コミケの描写がない。まるごと排除されていて、存在していない。そうして、そういう小さなリスクから試していく、っていう選択肢を描かない。一気に高リスクから始める。経歴的にも高校受験を捨てるし」
「肉体的には肝臓壊すしな」
「それはまあ、週刊少年ジャンプの連載だから」
「まあね。でもあれ、現実で戦う、仕組みをわかったうえで合理的に戦うんだという語り口で始めてるからね。自他の評価の話から入って、自分たちに使えるどんな手段でも使いきって戦うんだ…という思慮を尽くしたふうな演出で始めている。これはけっこうそう思ってしまう人もいるんじゃないかな」
「身内に、『え? まずコミケで100部売ってみたら?』って言ってくれる人がいない人はね。」
「週刊少年ジャンプを読んで、漫画を描くというのはこれが基本的なキャリアパスなんだ、これがまず挑むべき第一の道なんだ、他は搦め手だ、って思ってしまうこともあるだろうね。そうして人生多少ゆがんじゃう人が数千人ぐらいはいるんじゃないかな。なにしろ、週刊少年ジャンプの連載なんだ。それで漫画としてすごく面白いからね」
「そりゃあ、週刊少年ジャンプの連載なんだからさ」
「アニメにもなったぜ」
「NHK教育でね。なかなかおそろしい」
「はい、はい。なにがそんなにこわいやら。」