ゲーマーならわかる! フューリーのネタバレ感想
「フューリーを観てきたよ」
「おお。いいですね…僕は先々週観ましたよ。あ、カードはそのスリーブじゃなくて、こっちを使いましょう。」
「TCGハードか」
「こういうのは多少高くても供給性が大事ですからね。上下揃えて入れていってください…で、どうでした」
「どうもよくわからなくてさ。腑に落ちないというか」
「僕も見終わってしばらくはなんやらほいと思っていたんですが、家に帰ってゲームを遊んでいるうちにわかってきましたよ。あれはゲーマーならわかる映画なんです。先輩もあと10回ほどなにかゲームをやればわかりますよ」
「なにそれ?」
「とりあえずこのゲームを遊びましょう。えーと。まず中国カードをソ連プレイヤーが持つ…」
(ネタバレの危険があります)「これでサドンデスだな」
「うぬー、お疲れ様でした! 難しいなあ、3のカードをもっと切っていっていいのかなあ」
「中国カードを早めに撃つんじゃないのかね。こっちからだとけっこう強そうに見えたけれど」
「それもかー」
「いい時間だし飯を食いに行こう」
「行きますか。蕎麦屋あたりどうです。駅向こうの」
「いいよ。あそこはつけあわせの野沢菜のおひたしが地味に美味しいよね」
「うまい店はなんでもうまいですから。あ、少々お待ちを。…これを持っていくかな」
「あい」
「太打田舎の大盛りに、たけのこの田楽、あと、たらの芽」
「じゃあこのけんちん蕎麦を。ありがとうございます。…それで、フューリーだが」
「ああ。あれはですね、Furyポイントをためる話なんですよ。もうわかったでしょう」
「は?」
「すぐわかります。あの映画の環境ではですね、堪えてこらえて鬱屈した怒りの値、憤怒値、Furyポイントを一定値以上ためていないキャラクターは使いものにならないんですよ。心の内側から湧き起こり燃えたぎって強く押し返す怒りの圧力がないと、肉片とはらわただらけの環境から押し潰されてしまって腰が立たなくなる。だから怒っていなくてはならない。Furyポイントが最低でも60以上ないと駄目、役に立たない。そういう環境の話なんです」
「んー?」
「だから新入りが来た時に、パーティメンバーは早速、新入りのFuryポイントを測定するわけです。お前のポイントいくつよ? それで新入りは3ポイントくらいしかありませんから、これはまずいなと。彼らが命を預けている戦車の乗員のひとりがFuryポイント低すぎ…? これでは自分たちの今日の命が危ない。だから彼らは新入りのFuryポイントを上げようとしはじめる」
「それがあの序盤なのか。でもそこで作った怒りは自分たちに向けられるんじゃないの?」
「そうです、それは構わないわけです。Furyポイントを60以上にすることがまず大事であって、仲間うちの同士うちでパーティアタックで上げたって60は60で機能するわけです。そうでなしに、ポイントが環境から与えられて徐々に上がっていくのを待っていてもいいんですが、あの場合、予定が押していて急いでいるので車長がパーティアタックして上げる。憎まれることになりますが、彼らはそんなことを繰り返してきているのでパーティ内の相互憎悪なんてもう常態化している。仲がいいか悪いかなんてことには瑣末な二次的な重要性しかない。それよりまずFuryしているか、何でもいいけれど何かに対して憤怒し、内圧を持っているか。それが重要なわけです」
「うえぇ」
「なにしろ、自分や部下やが死ぬかもしれないわけですから、それに比べれば非常に多くの行為が比較上善い事になる。倫理的な善なる行為になるわけです。で、話が進んで中盤の食事シーンも面白くて、あそこで何をやってるかというと、今度は部下たちが車長にFuryポイントの供給をしているわけです。おいあんたFuryポイント減ってね? 大丈夫? 圧力が足りないといつ潰れるかわからなくて心配するじゃないか? お互いちゃんと60ポイントを保とうぜ? ってね。彼らは常時そうやって相互にFuryポイントを測定し、たがいに保守維持しあっている」
「うむー。そうなのか」
「あの映画はFuryポイントをめぐる話であって、初端からタイトルで核心の種を明かしているんです。これは先輩もいずれ気づいたはずですよ。観た後にゲームをした回数がぼくのほうが多かったというだけでね」
「そうだとして、最後は…最後のキャタピラが切れてからの展開はどうなの」
「最後。むむむ。最後はまだ、よくわからないんですよね。この味噌つけると美味いですよ」
「ありがとう。まだわからないか」
「たしかに全員があの戦車を心底憎んで、心底依存しているというのはあると思ったんですよ」
「ふむ。愛かつ憎というやつね」
「わからないところですが、戦車もののスリラー小説の傑作にこういう本がありまして」
「『砂漠の標的』。君の好きなギャビン・ライアル先生の本か」
「この中にこういう一節があります;
こういう邪魔に対して、彼はひややかな、自信に満ちた怒りを感じた。あとのふたりもそれを感じ、戦車も感じているのがわかる。自分たちは戦車を死なせないために、ここまで走り、隠れ、働き、血を流してきたのだ。いま、それは思いもしなかったかたちで生きのびた。複数の脳を持ち、獰猛で危険このうえない、生ける野獣。
疲労からくる、軽い興奮と思考の狭さということも幾分あるだろうが、しかし自分たちはいまや野獣と化し、この野獣は、倦むことを知らない。彼が「殺せ」といえば、野獣は躊躇せず殺すだろう。イスラエル軍のヘリコプターとその搭乗員が、砂漠にずたずたの骸をさらしたら、三国の政府が彼らの上に雪崩のように襲いかかってくるにちがいない。けれども、彼がなぜ「殺せ」といったのか、三国政府が決して理解することのないそのわけを、あとのふたりはきっとわかってくれるだろう。
このへんの心理のベクトルの10倍くらいになったものが、あの最後の戦車に残る展開なのかな? とか。よくわからないですが」
「ふむ」
「まあ『砂漠の標的』は組織戦の心理の戦いで何層ものレイヤーを、4名の戦車乗員の心理から旅団規模の兵士と軍人の心理、政府上層組織の心理までの戦いがあって、それらをそれぞれ戦って勝っていく話なので最高に面白いですよ。超お薦めです」
「そこまでお薦めなら拝借するかな」
「ぜひ。どうぞ」
「思うに映画のオチ、あの覗き込みはなんなのか、よくわからなかったのですが、そう考えてみると、ポイントをいきなり0にするやりとりなのでしょうね。あそこでばっつりと主人公のFuryポイントが0になってエンディングになる。あれかあれに類するなにかがないと0にならないからオチないわけだ」
「ほう」
「あの兵士からするとまわりじゅう友軍の死体だらけなはずで、それで見逃すという展開はなかなか強引なのだが、なにかしらのプロットを入れて0にしないと、単に隠れきって終わる、ではポイントが残ってしまう。ポイントが残ってはオチないわけだ」
「ふむふむ」
「憎しみ、でいうとこの映画、自分たちの乗っている戦車への憎しみが強調されてるところがひとつ特徴かもしれないね。初っ端から車中で弾薬箱に用足ししてて、砲身のFuryって字も投げやりな殴り書きでね。命を預けている大事なものでありながら、同時にこれフォード製の大量生産品だろ、俺たちがはらわたまみれで埋葬されるであろう棺桶だろと。戦艦大和やティーガー戦車みたいな、職人が心をこめて作ったレアものです大切に使ってねっていうストーリーのあるものじゃない。君、そういったストーリーに以前難癖をつけていなかったか」
「あー、敗戦国のロマン系の話ですかね(エースたちの撃墜数)。たしかに一種の英雄算で、敗戦国のほうが兵器の一隻や一輌にストーリーをのせやすいというのはあるかもですね」
「この映画のシャーマン戦車は、戦勝国が何万輌も作った物だからこそ、物への憎しみが非常に強く表現できているのかもしれないな。イギリスでいう『ブラッカムの爆撃機』の、アメリカ版、戦車版というか、物量の戦勝国ならではうまく掴みとった演出なのかも。そう考えると、日本人は物への憎しみを忘れすぎだな。船に罪はないとかわれわれ思っているわけだからな」
「『嘘つきだよ、長門さん』は名作ですよ」
「アメリカ人のあのフューリーを見て、物への憎しみを思い出そう。忘れていた思いを蘇らせよう。物を憎もう!」
「なにをおっしゃるやら」