指輪世界の第五日記。基本的に全部ネタバレです。 Twitter 個人サイト

幾重もの正常化バイアスとしての「この世界の片隅に」

「いやー見たね見たね」

「ですねえ。何回目なんですか」

「7回目だね」

「おぅ」

「先行上映のあと、一人でリピートしたほかに親兄弟に勧めて連れてったりもあるからね。君は?」

「4回になりますか。いやあ…しかしすごいですね!」

「どういう感想を言ったものか、言葉がなかなか出てこないところがあるんだよね」

「ふむ。それですが、ひとつ言えるポイントができてきたんですよ」

「ほう。あ、ここでいい?」

「おでん屋。良さそうですね」

「じゃあここで。すみませーん。二人。はーい」

 

「まずですが、原作漫画と映画とをごっちゃに足して話しますね」

「というと」

「なんというか…こうの史代先生と片渕須直監督とアニメスタッフ、ほか関係各位の方々は、『北條すず学会』とでもいうか、なんかそういうノリをやってらっしゃる気がするんですよね。こうの先生の中にあるものか片渕監督の中にあるものかのどちらかだ、この2者の間の差分はなんだ、というのではなくて、彼らの外の、70年前に存在した人を目標として、それに近づこうという姿勢。だから足し算で考える」

シャーロッキアンみたいなやつか」

「そうそうそう。あともう一点、この話に出てくるキャラクターたちの行動には、つねに三つぐらいの理由が重なっているように思われる。ですのでここから僕が喋る理屈は、もしうまく合っていたにしても全体の三分の一ぐらいを言い当てられているにすぎないでしょう。そこもよろしく…はい、こっちです。国稀。はい」

「では…乾杯。おつかれさまー」

「おつかれでしたー。それでですね、この作品のひとつポイントは、その繰り返される、何重ものギャグと糊塗とにある」

「こと?」

「糊塗、ごまかし、まやかし、虚飾です。端的なのが、『あんた広島に帰ったら』に対して『里帰り!』とギャグでかわすシーン。あのやりとりでは、まず小じゅうとめが『作れ、今すぐ!』といびり、それを受けて主人公が『おかげさまでこの通り、着物が直せました』と下手に出ています。しかし…」

「仕立てだけに」

「はい。しかし、小じゅうとめは『あんた広島に帰ったら』と攻撃をやめない。そこで、義父、義母、夫が 『そりゃあええ』 → 『うん』 → 『みなさんによろしくのう』 と、ギャグ解釈の流れを作って嫁に振る。これは《里帰りの話をしているんだ。そういうことにすればこの集団の秩序を今のまま保てる》と嫁にパスを振っていて、それを主人公は読み取って『ああ、里帰り!』とオチをつけて、かわしたわけです。嫁が小じゅうとめにいじめられていることを、一家六人のうち四人のパス回しでもってギャグで糊塗し、ごまかしている。気づいていません、と、平静をよそおっている」

「えー? あれは演技だとみなすの?」

「素でもよし、演技でもよし、といったところでしょう。そして、『呉にお嫁に行った夢見とったわ』 → 『(ハゲが)バレとりましたか』と続きますが…

『作れ、今すぐ!』 → 『おかげ様で着物が直せました』 小じゅうとめの攻撃に下手に出る
『あんた広島に帰ったら』 → 『里帰り!』 攻撃を義父、義母、夫の振りに従いかわす
『呉にお嫁に行った夢見とったわ』 生家に帰りたいという弱音
『(ハゲが)バレとりましたか』 ストレスが体調に出ている
『朝ふたり分食べたんじゃし このくらいでええよね!』 立場が強くなるかと思われたがならない

これらはすべて対立なんです。対立、矛盾がある」

「へーそう…かな」

「そうなんです。それに対して、主人公は生来、そして冒頭で義父たちから振られた通りにも、常に気づかないふりをして、ボケにボケつくして冗談に落としかわし続ける。常にギャグをひねりだして矛盾を糊塗し、表面上の平静な日常を保ちつづける。口に出して『わたしをいじめているのか!』と対立をあらわにすることなしに、自分が我慢して、わたしはぼうっとしているから、と言い続けて」

「うーん? 読みすぎじゃないの」

「甘い甘い、こんなもんじゃないです。次に、姪と畑にいるときに空襲されるシーンを見てみましょう。ここでは義父が、歌いながら寝落ちする、という高度なギャグを見せますね」

「『いそしむ技術にこもれるは…』、広工廠歌というやつだな。サントラに入ってないんだよね」

「ネットでもぱっとみ見当たらないんですよね。フルをローテーションしたいですね、牛山茂氏ボーカルでね! このシーンも、また非常に面白いところです。弾片が降りそそぐ中ですくみあがる主人公と姪とをかばいながら、義父は、

鳴らしとるのう。
わしらの二千馬力がええ音鳴らしとる。
わしらが日夜工場で働くのは、あれを歩留まりよう仕上げるためじゃ。
九一式五百馬力から始めて、ここまできたかのう。

飛行機のエンジンスペックを、そこに込めた自分たちの努力、誇りを語るんですね。彼は何年もエンジンを作ってきた、遠くの国の人々の頭上に爆弾を落としに行くためのエンジンをね。だから今度は自分たちの頭上に爆弾を落としに来られることも、その延長としてすでに身構えていて、十分起きうることと思っている。彼我の航続距離の間合いなんかも肌身でわかっていて、主人公や姪とは身構えが違う。その彼が歌うのがこの広工廠歌です。

朝(あした)に星をいただきて
夕(ゆうべ)に月の影ふみて
勤しむ技術にこもれるは
世界平和の光なり
全力集中一念に
尊き使命果さばや

《昼夜を徹して技術開発を進めるのは、世界の平和を目指しているからだ》という、彼の職業の、そして広工廠の組織集団の理念ですね。しかしそれはまさに破綻していることが頭上に示されており、そしてすぐ眼下にも示されていくわけです。そして彼は《自分たちの改良努力により四倍もの性能向上が達せられた》と誇るんですが、これには姪が『軍事力なんだから相対的性能が問われる』とキツいツッコミを入れて、矛盾をつきつけてきます。理念でも成果物でも追い詰められた義父は、ギャグでかわすしかありません。それが、空襲下で熟睡する、という渾身のギャグなわけです」

「ギャグ…」

「傑作なギャグだったでしょう? そして、このギャグは問題そのものはなくせない。義父は死んでいたかもしれない、誰かが死んでいたかもしれない、これから死ぬかもしれない。この問題そのものには指一本ふれることはできず、先送りにしているにすぎない。問題を糊塗し、おおいかくして、集団の秩序を保つ一方で、問題は存在しつづける。すばらしいギャグほど、巧美な解釈ほど、大きな問題を先送りにする。そろそろ行きますか」

「あ、すみませーん。お勘定おねがいします。はい。お勘定」

「この話に出てくるすべてのギャグは、必ずなにかを糊塗し、よそおい、覆おうとしているんです。ギャグシーンにはすべてなにかがある。各シーンでギャグで糊塗しなければならないのはそれぞれなにか、なんなのか、ということです」

「うーむ??」

「そして全体の構造としては、そうしてギャグで軽めの対立、小規模な矛盾をごまかしているうちは、まああるある話だよね、そういうのをかわしながら人間生きていくよね、そこをどう悩み工夫してくかが面白いものだよね、というものなんですが、静かに徐々にスムーズに、より大きな矛盾、大きな問題に対面するようになっていく。主人公たちはそれら訪れる問題が大きくなっていっても、従前同様のギャグ技で対処していくから、一見、今日もギャグに解釈して日常が保てたね、今回の問題もかわして集団の秩序を保つことに成功したね、よかったね、というふうに見える」

「正常化バイアスみたいなものかな?」

「あーそうそう。まさに。正常化バイアス、ギャグ化バイアス、ギャグ解釈バイアスとでもいったかんじでしょうか。そうやって正常化バイアス、ギャグ化バイアスで、徐々に近づき大きくなってくる世界のビーンボールをかわしつづけていく。ひとつひとつの差分が小さめだし、上手いギャグだから問題の危険さを包み込めてしまって、一線を引きにくい。同じ温度感のギャグで包めている間は外見上は同じ温度に感じられる。しかし先送りにしつづけた問題は大きくなりつづけて、主人公たちはかわしつづけながらも追い詰められていき、けっきょくついに巨大な問題がやってきてかわせなくて、ギャーとなるわけです。それはギャグではかわせない。解釈で糊塗し包むことができない。そこが強烈な悲劇になる。そういう構造になっている話なんですね。ごちそうさまでしたー」

「どうもぉーごちそうさまですー」

「そして、これは主人公一人がやっていたことでもない。すずさん一人がギャグ化バイアスでかわしつづけていたわけではなくて、多くの個人が正常化バイアスや、類似した解釈でもって一日一日をかわしていたともいえる。また個人から一層上のレイヤーの、北條家という集団も、なんらかの糊塗を、たとえば憲兵たちに対して見せてやりすごしており、また一層上の隣組や、広工廠といった集団、呉や広島という街の集団も、『勝利の日まで』といった類の虚飾を歌っていて、そのまた上では、海軍が『瞬間的決戦なら勝てる』という虚飾を唱える一方、陸軍は『長期的総力戦なら勝てる』という虚飾を唱えており、さらにその上に日本国が大東亜共栄圏、不滅、必勝、神風、一億火の玉という虚飾を唱えている。こういうふうに多層構造の各レイヤーの集団がそれぞれ糊塗と虚飾をやっている。すずさんから日本まで、個人から国家まで通じてが、あるあるやるよねそれは人間のすることだからね、糊塗しちゃうよね、という、あるある話になっている。ここが実にすごい! 神聖視されず、人間的にされている。なんという筆力! 面白すぎる!!」

「どうどう。クリスタルガイザーでも飲め。ふむう…おでんはいまいちだったな。わるいね」

「まあそんなでもなかったですよ」

「腹が減ってうろついてたときに見かけておぼえてた店だったからな。空腹は誤らせるね。もう一軒、前行った日本酒行くか」

「駅脇の。いいですね。でですね、それで、おととい、このうえですごい重要なポイントに気がついたので聞いてください」

「うん? あ、こっちだな」