欲望の言説の集積
馬場秀和氏のテーブルトークRPGコラムの都ちゃんに萌え萌え(3)を読んだ。
常にも増して豊富鮮彩な挿話から論理へ移る、みごとな文章である。しかし、萌えについて、そして萌えと意志決定との関係については、数言つけくわえさせていただかねばならない。
なるほど、萌魂は人を強く激しく動かし、それは時として無反省で、非論理的確信を伴う。しかし、萌える人がそのあまりに迷い無き確信ゆえに葛藤を持たず、ゆえに意志決定が成立せず、よって本質的にゲームと両立しがたい、と考えるのは、誤りである。
なぜ誤りか。それは、『都ちゃんに萌え萌え(3)』が自ら適切に表している。(3)には、また(1)にも(2)にも、萌魂によって萌え狂う、迷い無き確信を抱いた人々の、非常に愉快な所為が列挙されている。そう、萌えている人々それ自身は、無反省で、非論理的確信をその動機とするかもしれない。だがそれは、結局は萌えるその人から他の誰かへ、つまりわれわれ読者へ、ときに紹介者を通じて(この場合馬場氏)、伝えられている。その伝達は、いかに動機が個人的なものであろうと、表現であり、他人に向けたメッセージである。そこでは、萌え狂う自分を他人に対して描写しなければならず、それは自己描写であって、無反省ではいられない。
(1)(2)(3)で挙げられた萌える人々の逸話は、非常に面白い。いかに面白く伝えうるか――萌え行動は、どれだけ面白く紹介できるかという観点で評価されている。つまり、非論理的なものごとだからといって、他人の評価から断ち切られて孤独に存在できているわけではない。別の言葉でいえば、萌えが表現されるとき、それは芸であらざるをえない。動機が常に同じひとつの萌えであっても、それを表現して他人の目にさらすときには、つまらない芸は使えず、同じ芸は使えない。少なくとも(1)(2)(3)のようにウェルメイドな萌え紹介では使われない。読み手の前にどんな芸を提出するか。ひとつの萌えを表現するにあたって、どんな経路を選ぶか。それは選択であり、葛藤であり、意志決定である。むしろその動機が客観性を欠くほどにこそ、それをいかに他人に伝えるべきかについて正解がなくなり、パズルから離れてゲームに近づく(馬場秀和”ハイパーロボット”とパズルゲームの楽しみ)と言い得る。現在、秋葉原で普通に商品化され販売されているキャラクタープリント抱き枕も、その黎明においてはときめきメモリアルのヘビーファン数人による独自の枕屋への個人注文であり、現在すでにリンク切れにされて読むことのできないその体験談(ゆいゆい洗脳研究所本館あるいはweb.archive.orgのときめき開発部)は、そのオリジナリティと大胆自棄先鋭さによって読む者の畏怖と尊敬を集めた。それによって彼らは、今にいたる「抱き枕を買う」という萌え芸の源流となった。萌えは芸なのだ。
別の観点から触れれば、萌えを語り、あるいは紹介する行為は、意志決定における説明責任/アカウンタビリティ(氷川TRPG研究室内意志決定について)に相当する。だから、あのアニメで一番萌えたキャラ誰よ、というわずか数語の質問でさえ、ラインナップのうちから誰か一人を選び、そしてその選択の理由を述べて質問者に語り聞かせよ、という要求を含意した、容易ならぬしろものなのである。
また別の切り口で例えてみよう。あるアニメ番組のファンとして地元の連れ集団やblogの感想書き集団や巨大掲示板のスレッド住人集団や同人誌制作者の集団に加わるとき、登場人物のうちから一人のキャラクターを選んで自分は誰某萌えだと宣言する場合を考える。その宣言は、連れの間での駄弁りやblogでの感想書きや巨大掲示板でのスレッド参加や同人の二次創作をTRPGのセッションとみなせば、そのキャラクターを信仰の御本尊とするプリーストクラスを選ぶことに相当する。その宣言を行ったプレイヤーは以後、そのアニメ番組にあらわれるすべての事象の中から、御本尊キャラクターに対する萌えを活性化させるトリガーを探し、見出そうとする。また、そのアニメにあらわれるすべての事象の中から、御本尊キャラクターの主人公キャラクターに対する愛の証拠を探し、見出そうとする。そして発見したそれらの事象とそれに対する自らの解釈を集団に、自分のパーティに報告する。それと同時に、このプリーストクラスは、自らの財貨あるいは世間体を生贄にして、御本尊キャラクターに捧げ、供える(あげたり、分解したり)。これらが、そのクラスの役割、ロールである。すなわちキャラ萌えとは、ある作品に対するファン集団の中で、司祭クラスを遊ぶこととみなせる。応用で考えれば、ファンタジーTRPGにおいて信仰者のロールプレイを行う際に演技に自信がない時は、神を萌えキャラ、世界をアニメ番組としてとらえ、キャラ萌えファンを想定して、上記した3つの行動を行うという手がある。
雑に理屈をつなぐと、blogの感想書きや巨大掲示板のスレッドや同人誌制作のなかに、これらキャラ萌えやオリジナルストーリーや二次創作の類へと形を変えて、かつてTRPGが担っていたもの、商品を未完成な骨組みとみなしてその隙間を消費者が肉付けし補完していく遊びが、拡散し浸透していっていると考えることもできる。だからTRPG文化は萌え文化に対して、チェスをやる人がスーパーロボット大戦をやっている人を見て、うーむ、よしよし、うーむ、とうなづきつつも唸る、くらいの態度で済ませることもできよう。
では、次に、視点を下げて、メッセージとしての萌えについて考えてみよう。
萌えで重要なのは、愛と所有関係である。リアル娘っ子やリアル小僧っ子の場合、それを獲得し所有できる人間は一人であって、排他である*exc。これが二次元のキャラクターの場合、そのキャラクターへの愛を得て、そのOVAやエロゲ、フィギュアを所有する人間が増えても、既にそのキャラを愛し所有する人間は困ったりしない。むしろ、他のファンが増えることで、自分の所有物も増える。たとえば単純な例で、ファンが増えたことによって公式のディストリビューター側が新たな商品展開を行い、トレーディングカードなりノベルなりが発売されて、それらを買うことができる、といったことだが、もう少し単純なパターンもある。
漫画を読む→ キャラ萌えスレッドをウォッチ→ うっかり萌えショートストーリーを書いて書き込む→ 神絵師が降臨してそのシチュエーションを描いてくれる→ さらにSS職人、絵師神ら降臨→ 選別保存して( ゜Д゜)ウマー
人間が時間をつぎこむことで、物事に、価値を追加していくことができる。したがってなんらかの物事の周囲に人間が集まって、その物事についての価値体系を正フィードバックで築いていくことができるし、されてきた。萌えはそうした現象のうちで、複製および加筆の容易な物事を中心に置いている。この視点からいえば、萌えとは、複製および加筆の容易で独占的所有可能性の低いものの回りに形成される集団の、価値観の相互強化フィードバックの手段としての言説である。その興隆を準備したのは何かといえば、ファンの投稿を集積しうる情報インフラの急激な拡充と、非公式コンテンツの質的向上をもたらす描画/造形/SS書き等技術的な知識の普及だと考えられる。
[exc] 独占的所有
萌えにおいて、愛の対象を誰かが独占することはできない。したがって、リアル娘っ子/小僧っ子であるところのリアルアイドルさんがたを萌え対象として扱う場合、ファンはその独占的所有の可能性を度外視して振舞う必要がある。これが萌えにおける諦観、諦めである(萌えと諦念)。
[dfd] 他人の萌えを自分の萌えの、自分の萌えを他人の萌えの燃料にする
参照:
萌えの多重構造 ※EBMのキーワード内「萌え」より
明日は明日の風と共に去りぬ−2002年2月の2月13日「欲望の欲望」について
ノウアスフィアの開墾
「萌えって何?」のテンプレート
その他の参考リンク:
ギャルゲーと意志決定
殺され萌え
余談ながら以前小林よしのり周辺の人々がヒットラーユーゲントのロールプレイ芸ではないかと思ったことがあったけれど(第一日記1999年11月01日)、正解は鳥肌実でしたね。