ぼくらのヒーロー・ムスカ
宮崎駿監督作品「天空の城ラピュタ」に登場する軍のラピュタ探索責任者ムスカ大佐は、まさにみんなのヒーローであった。
冷静にして沈着、しかしその胸に秘められた他者全般に対する復讐心と空想的な絶対権力への指向が、全国の少年の心を固くつかんだ。
彼の努力と成功、そして失墜のドラマは、一個の文学作品として成立する。
「天空の城ラピュタ」が一流のエンターテインメント作品として支持されるのも、ひとえにこのムスカ大佐の人間的魅力あればこそといえよう。
以下に、ムスカ大佐に関して愚考ながら述べたい。
「君の一族はそんなことも忘れてしまったのかね」
と言うように、ムスカの一族はシータのそれとは違い、ラピュタの知識を伝承してきた。
彼は、父母あるいは祖父母から、一族の秘密としてそれを教えられたと思われる。
しかしその一族は、ムスカが将軍から「特務の青二才が」とののしられる様子から、むしろ権威ある家柄などではなくて、ラピュタ王族の末裔であるということのみを内心の誇りとしている、零落した人々ではなかったかと思われる。
この点、ムスカとパズーは相似する。親の見た夢を自分も抱いて生きているのである。
そしてムスカは、自分と一族に正当な地位を取り戻すべく、ラピュタの知識を独力で集めた。たとえば
飛行石の用法
「飛行石にラピュタの位置を示させる呪文かなにかを、君は知っているはずだ」
ラピュタの構造
「ここから先は王族しか入れない聖域なのだ」
ラピュタの超兵器
「旧約聖書にある、ソドムとゴモラを滅ぼした天の火だよ。ラーマヤーナではインドラの矢とも伝えているがね」
である。こうした努力に関しては、パズーの飛行機とムスカの手帳が対応する。
しかし、暗い図書館の片隅で、埃のつもった古文書を読み、メモを取りながら、ムスカは不安を抱いていた。
ラピュタは夢物語かもしれないのだ。飛行石も伝えられてはおらず、自分が集めた知識もでたらめかもしれない。
「このまま進め。光は常に雲の渦の中心を指している。ラピュタは嵐の中にいる」
と命令するムスカ。その自信にあふれた態度の奥には、自分の信じてきたラピュタを、人生を捧げてきたラピュタを、本当に信じられるのかとおびえる彼がいるのである。
その不安が打ち破られたとき、彼は叫ぶ。
「読める、読めるぞ!」と。
この一言に彼のそれまでの人生すべてが表現されていると言っていいだろう。そう、その時、彼は勝ったのだ。彼のそれまでの人生は肯定された。ラピュタはほんとうに彼のものになったのだ。
以上、もはや国民的ヒーローとなった観のあるムスカ大佐について、そのライバルであるパズー少年と対比しながら、推測を織りまぜつつ論じた。
「天空の城ラピュタ」自体はムスカ大佐の敗北とラピュタの崩壊によって悲劇的に終わるが、劇中大佐が言うように、それが人類の夢である限り、ラピュタは何度でもよみがえる。
志を胸に秘めた少年少女は、彼をめざして奮闘してもらいたい。
およばずながら励ましとしつつ、本論を終える。
(1998.1.13 指輪世界 ityou)
あんみやの心の中
「心をとぎ澄ますことで、庵野監督×宮崎監督のより深いペアリングを見出すことが可能です」
「庵野宮崎…『あんみや』か」
「そうそう。あんみや。どうやるかというとですね、たとえば、TV版エヴァンゲリオンの15話で、シンジとゲンドウの親子が、亡くなった母親の墓参りに行って、そこで話をするでしょう」
「するね」
シンジ:写真とかないの?
ゲンドウ:残ってはいない。この墓もただの飾りだ。遺体はない。
シンジ:…先生の言ってた通り、全部捨てちゃったんだね。
ゲンドウ:すべては心の中だ。今はそれでいい。
http://wikiwiki.jp/eva-shingeki/?%A5%BB%A5%EA%A5%D5%CA%DD%B4%C9%B8%CB%2F%C2%E8%BD%A6%B8%E0%CF%C3
「この会話はですね、宮崎駿先生が、若き部下、庵野秀明先生に語った、キャラクターアニメーターの心得なんじゃないかと思うんですよ」
「は?」
「つまりですね、もう何十年か前、まだジブリではなかったスタジオの一角で、夜中、二人で鉛筆を走らせながら、こんな会話をしていた」
宮崎先生:昔見た、○○っていうすごい作品の□□っていうキャラクターがいてさ。それがもう素晴らしくてね。最高なのだよ。
庵野先生:へえーそうなんですか! 素晴らしいんですか。ビデオテープとかお持ちですか? 見れます?
宮崎先生:馬鹿者!!
庵野先生:!?
宮崎先生:そんなもの持ってるわけないだろう! とっくに捨てたよ! 庵野くん、君はなにもわかっていないね。そんなだからダメなんだ。全然ダメだ。
庵野先生:ど…どういうことでしょうか?
宮崎先生:あのね、君もアニメーターになるならだ。若いときに自分が見て感動した作品というのがきっとあるだろう。しかし世界の技術の水準も自分自身の技量も、日々、年々、上がっていく。腕を上げてから、かつて感動した作品を見直せば、なあんだここができていなかったのか、あそこの仕上がりが甘かったのか、と、粗がわかるようになっていく。欠点に気づけるようになっていく。そうに決まってるだろう?
庵野先生:ハ、ハイ、そうかもしれません。
宮崎先生:自分が見て感動したとき、その素晴らしさ、最高の印象で記憶したその心の中のキャラクターが、一番美しいに決まってるんだ。自分の心の中にできるかぎり美しいものをできるだけたくさん集めていく。それは元の作品をこえて、自分が腕を上げれば上げるほど美しくなっていく。そうしたら今度は、自分の心の中からその最高の美しさを取り出して、アニメーションを描くんだよ。ビデオテープからビデオテープに描き移していくものじゃあないんだ。だから昔愛したキャラクターのビデオテープなんて、愛していたのだからこそ、持ってちゃいけない。そんなものは全部捨てる!!
庵野先生:(ひえ〜!!)
宮崎先生:少しは見込みがあるかと思えば。まったくダメダメだね君は。
庵野先生:心得ちがいをしておりました! たいへん勉強になります!(このおじさん最高に面白え〜!! いつかアニメに登場させてやろ!!)
「…と、こういうやりとりを込めたのが、あの墓参りの会話なわけですよ」
「ややこしい。妄想の屋上屋を重ねるといったところだな」
「この数十年前の会話は、師匠から弟子へのマウンティングでもありますが、弟子である庵野先生は、エヴァンゲリオンでそうやって、師匠である宮崎先生をおもしろおじさんとして描きかえしたわけです。つまり、リバです。意味合ってますでしょうか」
「本当か? どうだろう」
シン・ゴジラネタバレ感想その2
三度目を見終えたのでいくつかメモ
・女特使はラブコメアスカと思って見るとなるほどかわいい
「アンタたちなんて見下してるんだからね!」
→「タメ口でいいって言ってるんですけど!」
→「帰ってこいって言われたんだけど…私、帰らないわ」
→「私が妻であなたが旦那でもいいわよ??」
・最後の演説の直後に「ヤシオリ作戦協力民間企業関係者」という字幕を確認できた。
作戦時にこれら民間技術者と自衛隊員とが被爆・死傷していると思われる
・第一戦で攻撃命令が長い連絡線を行ったり来たりするが、これが最後の「お前、指揮官がなんで前にいく」の前振りになっていると言える。実際に最終戦で「問題がありますがどうします」という問いが数回あって、「それは本質的ではないから続行」という命令が即座に出せているから、意味があるという描写にはなっている
・気づいていなかったが最終戦の前線指揮所には安田がいるっぽい
・総理が「今、ここで決めるのか!?」とうろたえる芝居があり、つまり、それ以前はすべて事前に説明と決定があったということ。官房長官が「(はい、利害関係組織が一通り存在を主張し終わりました。ここで打ち合わせ通りのご決定をどうぞ)」というのを毎回やってきた。
それが、急変進行する危機のなかで、事前打ち合わせなしに芝居でなしに組織を動かせる首相になっていく。
その成長の頂点で死んでしまうという理屈に沿った脚本になっている。
・赤坂の、また彼の将来像である官房長官の立ち回りというのは交通整理である。個々の課題を、それに関わる複数の政治権力の間のバランスの最適な落としどころを見つけるべきものととらえていて、その把握と取引とだけに専心しようとしている。「俺は権力者じゃない、交通巡視員だよ」といったところだ(そこにこそまた巨大な権力があるのだが)。
世界に誰も解決策を知らない新しい問題などなく、ただ複数の組織のうちのどれがどれだけコミットし、どれだけリスクとリターンを分割するかの手柄争いに過ぎない。「誰も気づいていなかった新しい解決法を僕が見つけました!」などというのは自分が英雄になれると舞い上がった作業者の譫妄だ、という考えの持ち主であり、それが「うぬぼれるな」という台詞として出る。
そうして怪獣騒ぎは矢口に持っていかせて、「成功しても失敗しても政治的イベントにすぎない」とうそぶいていたのだけれど、核攻撃は彼の世界観の枠を越えていて、唯一動揺した顔芸を見せる。そして矢口に相談をしに行く。
最後の面談は赤坂が矢口に嫌味を言ってマウンティングしている絵面だが、実際には「こっちは追い詰められてしまった。お前のほうの成算はどうなの」という弱音を吐いていて、それをあくまで自分が力及ばなかったのではなく客観的合理性に従っているのだ、というレトリックで覆っている。
・今回、ほぼ唯一、ゴジラ側に感情移入させそうな箇所は、バンカーバスターくらったところでよろけうつむいて「悲しいぜ〜♫」みたいな曲が流れるところなのだけれど、そこから流れるようにスーパー大逆襲に続いていくので、「ああ、憐れな…憐れどころじゃねえ!!!?」
ってなるので結局感情移入させないつくりになっている。
シン・ゴジラネタバレワンポイント
「じゃあネタバレ部屋作りますね」
「オーケイ」
「はい」
「ここ?」
「ようこそ」
「どうでした」
「ダメどころは色々あるな。まず、アメリカ特使のキャラ付け…
…あとゴジラの立ち位置に依存しすぎる最終作戦。ゴジラがあそこに居続けてどこかよそに行くことを考えない」
「んーそれは、そこは一点、あなた方に言っておかなければならない」
「なに」
「最後の決定打が盛り上がらないとか、顔をむけて倒れること、機材のスペースがあることの都合良さ、といったことを言う向きがあるが、そこは失礼ながら重要なポイントを逃していると申し上げたい」
「なによ?」
「それはこの映画が、『ポンプ車にゴジラを倒させる』ための映画だ、ということです」
「??」
「陸自の20mmガトリングから始まって、ひとつひとつの兵器が通用せず、適切に順番に火力が増大して、ついに世界最強の通常兵器バンカーバスターまでエスカレートしても勝てない。そして場所は日本の人口の中心、東京駅。その絶体絶命の大危機の、最後の救世主が、3個小隊のポンプ車だと。最強最悪の巨大生物ゴジラを倒した決まり手は、ポンプ車の注水だった、という、この決勝点の絵面を写すために、おおよそすべての設定と展開がある。それまでの努力とそこからの未来の、すべてを託されてゴールを決めたのはポンプ車なんだと」
「なるほど?」
「ポンプ車作戦の実行の詳細が描写されない、わからない、といったことをおっしゃる向きもあるが、そこはぜひわかって頂きたい。ガレキをどけてスペースを作り、四苦八苦ホースを伸ばしつないで注水する、それはもうわかっているのだ。フィクションのほうで長尺の描写をやりすぎては尊礼を損ねるというものだ」
「どうしてそこまでしてポンプ車にこだわるのか」
「バラバラな仕様のポンプ車を全部使ってやるんだと。どれが使われた、どれが使われなかった、とかじゃない。そんなことガタガタ言ってんじゃなく、集まったポンプ車すべてが英雄なんだ、全部活躍させる、させたい、ブーンドドドさせるんだと」
「倒れた口にホース突っ込んでゴクゴクというあの絵が全然かっこよく思えないけどな。都合よく届くのかとか、政府が苦しんだ想定外がまるで起こらないし、人類側の作戦がそこまで上手に決まってほしくないという感情もある。これまで数々のスーパー兵器を退けてきたゴジラが倒されるんだから相応の説得力がほしい」
「そうかな。もう『ポンプ車で勝った!!』『うおおおポンプ車だあああ』という感想で脳内のタイムラインがいっぱいですけど」
「どこだよ」
当時の記事 http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK2200I_S1A320C1000000/
中央建設株式会社記事 http://plus-mie.jp/fukushima.html
一緒に見に行った土屋つかささんのネタバレ感想http://someiyoshino.main.jp/nowornever/?p=88
不在の…いや、存在する!/サウルの息子
「それでさ、今回の」
「サウルの息子」
「もう傑作だね! これも、みんな死んじゃう系でしょ」
「死にますね」
「やっぱり高い高い死の壁に四囲を囲まれてて、絶望しようと、抗おうと、戦おうと、狂おうと、どうしようとも死ぬ。人間として強かろうと弱かろうと、善かろうと悪しかろうと、賢かろうと愚かだろうと、あまりに高い死の壁の中では、ごまつぶの背丈がわずかに凸凹しているだけで、意味がない」
「ふむ…主人公はヘマばかりで、身勝手で、仲間の足を引っ張りまくりますけども」
「仲間って言ったって、そもそもが同胞を騙しなだめて屠殺場まで連れて行く、死の羊飼いをやることで、数ヶ月の生をながらえている背信者たちなわけだからね。だから、いったいなにが裏切りなのか、なにがヘマなのか、もうすり切れてしまっていて区別がつかない。その無意味さの中で、存在しない息子を弔おうと執着して、危ない橋を渡り続ける。この映画はその執拗さを延々写していく」
「むー?」
「主人公があくまで執着する息子。その息子が、意味がなく、死んでおり、そもそも存在しない。主人公の執着対象がいかに存在していないかが明示されていく。存在しない息子。屋内に閉じ込められている鳥が、なにもない空間で虫をついばむ行動をとるようなものだ」
「なにかの代償行為ということですか」
「そういったものなのかと思う。そしてその死体もついに、流されてなくなってしまう」
「渡河するシーンですね」
「もとから存在しなかった息子が、ついにその死体も消えてしまう。と、そこに、その意味のなかったポインタ、虚無の場所に、生きている少年が立ち現れる」
「あの目が合う子ですか」
「金髪碧眼のあの少年、あれは
・ナチスではないが、・ナチスのやったことを見ていた、傍観していた──『知らなかった』ではない、
・戦争中は声を上げられなかった──口を塞がれる演出、
・生き延びて敗戦後の国を継いだ、
という少年、つまり、お前たち国を継いだ人間、この少年がお前たちだ、という含意になっている」
「えー」
「これはもう明々白々、めちゃくちゃわかりやすい。論を待たぬといえる。そして、それに対して主人公が微笑む。ここが真のポイントだ。ここまで表情を抑えに抑えてきた主人公の、満面の笑み。これで、その少年が主人公の息子だ、という意味になる。この二人は血縁もふれ合いも全くない、言葉も心も交流しないまるきり無縁の二人なのだが、しかし、この最後のワンカット、執拗な90分のあとの1分のシーンでもって、息子になる。ここまで執拗に、意味がない、死んでいる、存在しない…と描かれてきた不在の人格、主人公の息子に、突如、意味が付与され、生き、存在させられる。それは、お前たちだ! スクリーンのこちら側にいる生者なのだ! こんな強引で鮮やかな技があるのか!! すごい構成だ!!」
「ノリノリですね」
参考: 町山智浩氏の 『サウルの息子』の息子とラストについて
みんなちがって、みんな死ぬ/野火
「野火の話はしたっけ。去年の、塚本晋也監督の」
「聞いてない…と思います」
「戦争映画の傑作でさ。みんな死んじゃう系。いばるやつも死ぬ、せこいやつも死ぬ、若僧も死ぬ、ベテランも死ぬ。人間性を捨てたやつも死ぬし、捨てなかったやつも死ぬ」
「みんな死んじゃう系」
「こうすればよかったのでは、という選択はなく、こうすれば生き延びれたのでは、といった道もない。それがしっかり説明されていく。賢ければ生き残れる、なにか知恵がまわれば生き残れるみたいな状況ではない。四囲を死に囲まれて、その死の壁が十分高いので、その中で賢さや人間力やらをくらべても、ごまつぶの背比べが凸凹してるだけで死んでいく」
「壁」
「死の壁のなかでぐずぐずと、たがいに空気を読みあいながら死んでいく。軍隊は、軍規と、命令系統と、兵站とがあるんだが、海軍が輸送艦をぼこぼこ沈められてるのに、陸軍は前のめりに兵士を送り込むから、兵站がなくなって下から崩れていく。兵站がなくなり、命令がなくなり、軍規がなくなる」
「組織として崩壊していくんですね」
「そう、まず組織として、次に個人として崩れていく。そして各人が人間性を、一部を残しながら捨てていって生き延びていくんだが、どこを残しながら捨てていくか。残しかた、残す部分が人によってちがっていて、バリエーションがある。それがみんなちがうんだよ、という映画だ。みんなちがうが、そこに優劣はなくて、どの残し方をしたら生き残るということはなくて、みんな死ぬ」
「みんなちがって、みんな死ぬ、と」
「うまいことを言うね。この、こうすれば生き残ったのでは、こういう人間性の残し方なら生き残ったのでは、という、ごまつぶの背比べを、丹念に描きながら丹念に潰してある。予算はないかもしれないし、歯がきれいなのが気になったりもするが、すみずみまでしっかり作り上げられた戦争映画だ」
「ふむふむ。あ、すみませんー。この…だし巻き卵を。あと…?」
「ねぎの焼きびたし。それと、これを、ストレートで。はい、お願いします」
西住みほはいつか死ぬ/ガールズ&パンツァーを兵士の映画とみる
「ああ、ガルパンはいいですね。先輩は何回目なんですか」
「これで3回目だね」
「よく見ますねえ。ミリオタとして闇の成分が足りないとか言ってたじゃないですか」
「うーん…それが…ふむ」
「?」
「ちょっと思いついたことがある。食いながら話そう。何を食べたい? タイ料理屋と、よさそうなおでん屋、あともうひとつ和風のところを見つけた」
「おでん屋でお願いできますか」
「いいね」
「ガルパンを戦争映画、兵士の映画として見ることは、やはり可能という気がしてきた──明博君、きみはガルパンを戦争映画として見たいかね」
「二次設定とかの話ですか?」
「いや、TV本編とOVAと劇場版の情報だけからいけそうだ。まず…あの熊のボコを、死のメタファーだと読む」
「おっ メタファー」
「傷と包帯だらけのボコ人形は、明らかに死のメタファーだ、としよう」
「大七はこっちです。はい、どうも…どうぞ。では…乾杯!」
「乾杯! …いいね。それで、あのボコワールドで、着ぐるみショーがあるだろう」
「ありますね」
「あれは『負けるとわかっていても立ち上がり、抗い戦う、それがボコだ』というテーマだ。つまり、『死ぬとしたら今日ではなく、明日だ』という言葉がある。兵士の言葉だな。『死は避けられない。あんたも死ぬし、俺も死ぬ。皆いつか死ぬ。だが今日じゃない』絶望するような戦場で、それでも立ち上がって今日一日を戦い抜く、それが兵士だ、Live another dayだと」
「はあ…?」
「着ぐるみショーでの『ボコ、がんばれ、ボコ、がんばれ』という声援は、ボコと自分を同一視している台詞だ。励ましているのは自分なんだ。島田愛里寿も同じ声援を送るが、あの二人は二人とも、死に共感している。死の中の生だな。死の中にあってその恐怖に抗い立ち上がり、一日一日を戦い抜く、それが兵士。Furyと同じテーマだ。ガルパンは実質フューリー」
「大丈夫かぁー はーい、こっちです。よし。よさそうですね。頂きます」
「いただきます」
「西住みほの発言を見てみるとだ;
3話麻子に「危ないから中に入って下さい」
4話 弾道に息を呑み、被弾をまぬがれて吐息→「車内は大丈夫だよ」
「めったに当たるものじゃない」→当たらないとは言ってない→いつかは当たる(だが今日ではなく、明日だ)
「女子高生がですか」
「女学生が死傷の危険を冒すなんておかしいのでは? と、一見、思うが、オリンピックやマラソンの中継を『この選手は去年、二度、疲労骨折しました』なんて解説を聞きながら見てたりするし、皆が拍手喝采で喜んで見てるチアリーディングや組体操のピラミッドで、首の骨折ったりしてるからね。そういったものに近いのだろう」
「いちおう…理屈は通ってるのかなー? いずれ死ぬことへの達観と、その達観を持ちながらボコを応援することが、イマイチつながらない」
「ボコは達観してるキャラであり、西住みほはその達観に憧れている。死を前にしてなお立ち上がり戦う、その覚悟ができるボコに憧れている」
「戦車から体を出してるみほは、それが役割だから死に面してるけど、達観しているわけではない?」
「『ボコは私だ』ではなく『私はボコだ(ボコでありたい)』」
「うーん?」
「ああー次作ではヨルダン高校のザイアダイン隊長と戦ってくれー 『きみは兵士だから戦う、ただそれだけだ。銃が自分は撃たねばならぬと知っているように、兵士は戦わねばならぬと知っているだけだ。だが、銃が撃つのをやめたら、こわれたら、もはや無でしかない。きみもおなじだ、西住みほ。撃つことをやめたら、死んでしまったら、神はなにを見いだす。無だ』って言われてくれー」
「なんですかそれ」
「ライアルの『砂漠の標的』だよ。全ページがこれぐらいかっこいいのでおすすめ。そろそろ行くか」
「はい」
「すみませーん。お勘定。はーい」
「なかなかよかったですね」
「タイトル…なにか強めの釣りタイトルなにか。『西住みほはいつか死ぬ』とか?」
「『戦争映画』の一言が入ると良いけど、『死ぬ』のほうがインパクトあります」
「『西住みほはいつか死ぬ/ガールズ&パンツァーを兵士の映画とみる』」
「良いのでは」
「:)」