西住みほはいつか死ぬ/ガールズ&パンツァーを兵士の映画とみる
「ああ、ガルパンはいいですね。先輩は何回目なんですか」
「これで3回目だね」
「よく見ますねえ。ミリオタとして闇の成分が足りないとか言ってたじゃないですか」
「うーん…それが…ふむ」
「?」
「ちょっと思いついたことがある。食いながら話そう。何を食べたい? タイ料理屋と、よさそうなおでん屋、あともうひとつ和風のところを見つけた」
「おでん屋でお願いできますか」
「いいね」
「ガルパンを戦争映画、兵士の映画として見ることは、やはり可能という気がしてきた──明博君、きみはガルパンを戦争映画として見たいかね」
「二次設定とかの話ですか?」
「いや、TV本編とOVAと劇場版の情報だけからいけそうだ。まず…あの熊のボコを、死のメタファーだと読む」
「おっ メタファー」
「傷と包帯だらけのボコ人形は、明らかに死のメタファーだ、としよう」
「大七はこっちです。はい、どうも…どうぞ。では…乾杯!」
「乾杯! …いいね。それで、あのボコワールドで、着ぐるみショーがあるだろう」
「ありますね」
「あれは『負けるとわかっていても立ち上がり、抗い戦う、それがボコだ』というテーマだ。つまり、『死ぬとしたら今日ではなく、明日だ』という言葉がある。兵士の言葉だな。『死は避けられない。あんたも死ぬし、俺も死ぬ。皆いつか死ぬ。だが今日じゃない』絶望するような戦場で、それでも立ち上がって今日一日を戦い抜く、それが兵士だ、Live another dayだと」
「はあ…?」
「着ぐるみショーでの『ボコ、がんばれ、ボコ、がんばれ』という声援は、ボコと自分を同一視している台詞だ。励ましているのは自分なんだ。島田愛里寿も同じ声援を送るが、あの二人は二人とも、死に共感している。死の中の生だな。死の中にあってその恐怖に抗い立ち上がり、一日一日を戦い抜く、それが兵士。Furyと同じテーマだ。ガルパンは実質フューリー」
「大丈夫かぁー はーい、こっちです。よし。よさそうですね。頂きます」
「いただきます」
「西住みほの発言を見てみるとだ;
3話麻子に「危ないから中に入って下さい」
4話 弾道に息を呑み、被弾をまぬがれて吐息→「車内は大丈夫だよ」
「めったに当たるものじゃない」→当たらないとは言ってない→いつかは当たる(だが今日ではなく、明日だ)
「女子高生がですか」
「女学生が死傷の危険を冒すなんておかしいのでは? と、一見、思うが、オリンピックやマラソンの中継を『この選手は去年、二度、疲労骨折しました』なんて解説を聞きながら見てたりするし、皆が拍手喝采で喜んで見てるチアリーディングや組体操のピラミッドで、首の骨折ったりしてるからね。そういったものに近いのだろう」
「いちおう…理屈は通ってるのかなー? いずれ死ぬことへの達観と、その達観を持ちながらボコを応援することが、イマイチつながらない」
「ボコは達観してるキャラであり、西住みほはその達観に憧れている。死を前にしてなお立ち上がり戦う、その覚悟ができるボコに憧れている」
「戦車から体を出してるみほは、それが役割だから死に面してるけど、達観しているわけではない?」
「『ボコは私だ』ではなく『私はボコだ(ボコでありたい)』」
「うーん?」
「ああー次作ではヨルダン高校のザイアダイン隊長と戦ってくれー 『きみは兵士だから戦う、ただそれだけだ。銃が自分は撃たねばならぬと知っているように、兵士は戦わねばならぬと知っているだけだ。だが、銃が撃つのをやめたら、こわれたら、もはや無でしかない。きみもおなじだ、西住みほ。撃つことをやめたら、死んでしまったら、神はなにを見いだす。無だ』って言われてくれー」
「なんですかそれ」
「ライアルの『砂漠の標的』だよ。全ページがこれぐらいかっこいいのでおすすめ。そろそろ行くか」
「はい」
「すみませーん。お勘定。はーい」
「なかなかよかったですね」
「タイトル…なにか強めの釣りタイトルなにか。『西住みほはいつか死ぬ』とか?」
「『戦争映画』の一言が入ると良いけど、『死ぬ』のほうがインパクトあります」
「『西住みほはいつか死ぬ/ガールズ&パンツァーを兵士の映画とみる』」
「良いのでは」
「:)」