指輪世界の第五日記。基本的に全部ネタバレです。 Twitter 個人サイト

学ランの少年達をめった斬りに/キルビル

 キル・ビル見てきた。

 楽しみは、第一に殺陣の楽しさ。日本刀の一対多戦闘での演出をよく理解したうえで、江湖的「なぜか床に降りたら負け」なテーブル・手摺りの上バトルを加えていて見事。第二に、序盤しょぼくれている主人公やライバルのおばさんたちが、演出の積み重なっていくうちにめきめきかっこよくなって、最後の対決シーンにはもう超美人になるところ。

 序中盤のきつめの主人公いじめと、四肢頭部の斬り飛ばしにこだわった刃物描写とが、味方・敵の残虐バランスを拮抗させている。そして十八番のふんだんなC級映画演出、およびかたことの外人日本語ギャグが、強力なまぬけ感をもたらして残虐性を中和する。

 監督は映画界における日本文化の間違った理解を非常に正しく理解していて、われわれは嬉しくなる。

 ただし惜しいことに、暗殺少女(鉄球女子高生)の理解は誤っている。日本文化での少女暗殺者の意味は、まず第一種が、罪のない少女がいずれ死ぬ(ような目に会う)かつそれから逃れられないことが最初からわかっている、という難病もの(参考:破滅兆候の至る快楽)の1バリエーションである。プロテスタント的な職業への義務感と自分の運命への諦観とが難病ものと相性良く組み合わさったしろものであり、少女は冷静である。第二種が、御都合主義的物語世界を意識して、その中(や外)ではしゃぐ男子どもをバカにしつつも、それにつきあってくれる皮肉で計算力のあるロールプレイヤーである。この少女ははしゃぎすぎの男子へのつっこみ役であり、そのつっこみの強度が強くなることで暗殺者となる(ハリセンの凶器化)。つっこみ役なので彼女もまた、冷静である。

 ところが鉄球女子高生のキャラクターはバトル・ロワイヤルから持ってきてしまっており、その殺人動機はヒステリックで、刺されたくない→刺す な性的役割の逆転がうんぬん、なアレである。これは違う。日本の若者の凶悪性の増大など、年長者の幻想だ(戦後最悪凶悪少年決定戦)。日本は平和漬けで、学生集団内の暴力的競争などない(少しはあってほしいという深作監督の親心だったのか?)。ただ、考えてみると、難病型や皮肉型ではユマ・サーマンにうまく殺されるのが難しいのかもしれない。また、画面に照れや自責がまったくなく、逆に強烈な自信に満ちて溢れているため、皮肉型の居る余地がないということも理由になろう。



 浜松TOHOシネマのロビーに入ると、ザラストサムライのでかいタペストリーが4つかかっていた。映画の筋は、以前、予告で見て、すなわち余裕こいたアメリカ人が日本人に戦争のやりかたを教えてやるとやってきて、しかしリージョナルな価値に感動して、互いに認め合う、という例によって時宜を得た(”だから、なあ、イラクに来いよ”)愉快な提案なのだが、映像に水気があって、セピア色で、とてもかっこよい。ロバート・E・リーと西郷隆盛を重ねてくるのであろう。

 この予告映像の軽騎兵旅団の突撃も美しいのだが、これが動に終始しているのに対して、タペストリーのポートレートの静っぷりは死ぬほどかっこよい。特に小雪の顔をそむけた慎ましさのえろさは効く。うつむいているヒロインって映画館ではあまり見ない。





キルビル関連で面白いの

SO_IT_GOES べた褒め系。

ビルを殺れ! アッパーバカ共感系。

Tigerlily Scribble 島本和彦の話なのに最後でキル・ビル。しかも納得。

我、関せず 先の先で切られた。

映画をマンガに大作戦! 竹易てあし――手足ぶっとばすあたりで気が合うかもしれない。

映画秘宝の偽ポスター きるぜもーる。





今後に残された課題

ウォシャウスキー兄弟がだめならタランティーノに今川ジャイアントロボを見せる

ソラリスの陽のもとにみたいなまったりと観念的で眠い映画のオマージュを退屈しないように撮る

デューンみたいな金をかけたような足りなかったような豪華貧乏な映画のオマージュを金かけてわざわざ貧乏臭く撮る

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